人は何と向かい合っているのか

茂木健一郎さんが「ボクは梅田さんと気が合う」と書いてある文章が『クオリア日記』にある。昨年の5月、お二人の対談集である『フューチャリスト宣言』が上梓された際の記者会見の実施を伝えるエントリーだ。それは、茂木さんが梅田さんとどのように気が合うのかを、まさにそのクオリアを読む者に感知させるような印象的な子供時代の小エピソードに託して紹介する内容で、そこで紹介されている小学校の保健室の話は、「鈴が坂道を転がるように」という卓抜な日記タイトルとともに不思議な明るさの印象を心に残す。この文章に限らず、無防備さの持つ強さが茂木さんの散文にはある。鍋のそばに座っている沢庵和尚のような感じだろうか。沢庵和尚というには、茂木さんはまだ若過ぎるし、それに例の髪の毛ぼさぼさだけれど。

■鈴が坂道を転がるように(『クオリア日記』2007年5月21日)


しかし、どのようには分かったとして、ではなぜそうなのかについては、想像をたくましくする以外には方法がなかった。『フューチャリスト宣言』を読んでも分らなかった。同著で語られている二人の志の相似性にはなんとなく思いをはせるものの、そこから保健室のエピソード、「鈴が坂道を転がる」ような笑い声を共有する関係に行き着くまでにはまだ距離があると僕には感じられた。ライフスタイルはかなり違う。では、何だろうというのは二人の読者としてなんとなく残っていた。

先週末から松岡正剛さんと茂木さんの対談集『脳と日本人』を手にしているのだが、そこでなされている発言を読んだときに、今まで知らなかった茂木さんの一面を目にして意外の感に打たれた。それがきっかけになって、思いがけず半年以上前に読んだ『クオリア日記』の茂木さんと梅田さんとの話が僕の意識に上ってきたのだ。

『脳と日本人』の中で茂木さんは、日本と自身との齟齬について語っている。テレビの司会をやったり、紅白歌合戦の審査委員になったりしている姿を見ていると、人は茂木さんが日本というシステムの真ん中辺りに住まっている人物だと単純に思ってしまうだろう。そんな人が日本との齟齬を無防備に語るのを読んで、へえと思い、なるほどと思った。

わかりやすい例でいうと、ぼくは、日本のテレビの連続ドラマに耐えられないのですよ。世間の多くの人たちは喜んでみているようだけど、ぼくは一話たりとも見ることができない。それで、どうしてなのかって考えたら、現代日本の日常生活を根本的に受け入れられないのですね。俳優が出てもっともらしく演技をしている。その風景自体に耐えられないのです。個人的な問題なんだけど、つまり、僕も、養老さん(注:養老孟司)とはちょっと違った意味で、日本というものに違和感を抱きつづけているわけです。
(『脳と日本人』p108-109)


電信柱だらけの汚い街並みにも我慢がならないと彼は語っている。ここから先は僕の勝手な想像にすぎないのだけれど、茂木さんと梅田さんの近さ、共感の源は、どうもこの辺りにあるような気がしてしまう。してみると、茂木さんのマスコミ露出、バラエティ番組出演などは「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の心境でもあるのだろうなと、これも想像をたくましくしてみるのである。ちなみに、とくに若い頃は、僕も日本の汚さが我慢ならなかった口だ。茂木さんが語っていることには僕なりの共感もまたある。


脳と日本人

脳と日本人