栃もち

水窪富士川りんちゃんに連れて行ってもらったお菓子屋さん、小松屋製菓で栃もちを買った。
栃もちというのは、Wikipediaによれば、「灰汁抜きした栃の実(トチノキの実)をもち米とともに蒸してからつき、餅にしたもの」だそうな。





山国には、あちこちで昔からある食べ物だそうだが、生れて初めて実物を見て、初めて食べた。
あく抜きに手間がかかるらしく、小松屋さんのおしゃれな店舗には壁板に直接、その作業の仕方についてイラスト入りの説明が書かれており、なかなか作るのもたいへんな食べ物であることは、なんとなく理解した。





茶色いのしもちみたいな形状で提供されているものを購入して食べてみると、確かにこれはもちで、色が黒いからといって、もち好きに嫌われる理由にはまったくならない。味には褐色の見た目を裏切らない、なんともシブい風味が乗っている。「シブい」と書いたが、実際に「渋い」わけではなく、つまり「cool」という意味で「シブい」と言いたいのであって、この味をなんと形容すれば、分かりやすく実態に即した表現になるのかは、けっこう難しい。しかし、舌の上に乗せてみると、苦み走ったいい男であることは間違いなく、「いいね」などと呟いてみると、違いが分かる男になったような気分を味わうことができる。少々だが。

こういう味は、おそらく食べ慣れるとなくてはならないものになるのだろうなと思う。なんてことない味だが、土地の者にとってはなしでは済ませられないような食品がどこにもある。私の生まれた博多の「おきゅうと」のようなもの。そんな風に理解した。

とすれば、どこまで、その本当のおいしさを分かっているかについては疑問符付きということにならざるを得ないのだが、我が家で奥さんに小豆を煮てもらい、それを乗せて食べた栃もちは文句なくおいしかった。





松屋さんには、栃もちの中にあんこを入れた「栃もち」や、こし餡と生クリームがコラボレーションする「純正生クリーム入り栃もち」というのが販売されていて、前者の正統派和風甘味ならではの味わいもさることながら、後者の和洋統合、高めあい結婚の結果はなかなかのものだった。これはぜひ、また食べたい。





松屋さんのホームページはこちら。

https://5028seika.com/

水窪へ行ってきた

4月に手術をして半年が過ぎ、遠出をしてきた。浜松市天竜区水窪町
2週間前に川崎で催されたブログの仲間の会に短い時間参加したのが、そもそもの話の始まり。術後初めての夜の外出で懐かしい顔の数々を見たとたんに元気が湧いてきて、ワイワイとおしゃべりしている最中に「水窪、行きたいね〜」などと口走ったら、瓢箪から駒がコロコロと出てしまった。

浜松まで新幹線に乗って、それから2時間車に揺られて、夕闇が谷間を覆い始める頃に着いたところは、信州長野が目と鼻の先の山間の土地。そこで美味しい手料理をしこたまご馳走になり、奥さんを交えて楽しいおしゃべりをして、可愛いお嬢ちゃんの笑顔に癒されて、満天の星を仰いで、山の斜面の粟畑を見せてもらい、小松屋製菓の伝統の栃餅を買って帰ってきた。

楽しかったな。がんばって出かけた甲斐がありました。
富士川さん、ありがとう。



ウィーン弦楽四重奏団リサイタル

今日はミューザ川崎にウィーン弦楽四重奏団を聴きに行ってきた。かつてのウィーン・フィルコンサートマスター、ヴェルナー・ヒンクが1960年代に立ち上げた名アンサンブル。この手の名の知れたカルテットの例に漏れず、長く演奏する間にメンバーは変わっているが、ヒンクさんは70代にしてまだ現役である。よし、一度聴いてこようと出かけてきた。
曲目は、ハイドンの「鳥」、モーツァルトの「狩」、シューベルトの「死と乙女」というタイトル付き名曲3連発だった。

で、演奏会の感想だが、これはなかなか曰く言い難い類の2時間だった。ここ2年ほどは気に入らなかった演奏会の感想文を載せるのはよしておこうと考えて、その種の文章はここには載せてこなかったが、まあいいやと思い直し、今日はちょっとだけ紹介する。

結論を言えば、リーダーのお歳がお歳なので、なかなか水準に達した演奏にならず、これでお金を取るのはどういうもんじゃろのうという出来だった。

ヒンクさんは音量がなく、ダイナミックな表現ができなくなっているし、リズムもはずまないし、音程が少々怪しい箇所が頻出する。とくに前半の2曲は、第一バイオリンが旋律をリードする曲なので、リーダーがそんな具合だと曲が前に進まない。残りの3人はヒンクさんのボリュームのなさに合わせざるを得ず、勢いよく伴奏のパートがクレッシェンドするわけにもいかず、全体が遠慮がちで小さな演奏になってしまう。後半の「死と乙女」では、冒頭の暴力的な出だしは、ウィーンのカフェで典雅なメレンゲを前にまったりと倦んでいるような風情となり、曲が進行してもドラマは起こらない。

曲が終わるたびに盛大な拍手は飛んでいたが、あれはどういう意味の拍手だろう。私のような社交辞令の覇気のない拍手も混じっていただろうが、あの演奏がよいという本物の拍手もあっただろうし、演奏はよくなくても彼らが弾いただけで満足というオールドファンの拍手も少なくなかっただろう。この日の会場は、平均年齢が高めの最近のクラシック音楽のコンサートの中でもとびきり高めに感じられたので、最後のカテゴリーは案外多かったのかもしれない。

ウーロン茶で乾杯

一昨日は退院後初めて夜の時間帯に出かけてきた。
瀬川さんと下川さんの呼びかけに乗せて頂き、川崎の中華料理店での宴会。手術をした後、こうした場所に来るのは初めてで、生れてはじめての、お酒を飲まない飲み会。ご飯も少々口に入れた程度だが、1時間半の間、集まった皆さんとのおしゃべりを存分に楽しんできた。
やはり、シュンポシオンは楽しい。

選挙が終わった

衆院選が終わった。ともかくも節操のない政党が票を採れなかったのは慶賀の至りである。東京都議選からたった3か月でオセロゲームが起こったことになるが、あれはそもそもかつての民主党の政権取りと一緒で、ムードに乗っかった期待票を取りすぎていただけなのだから、ムードに乗って票を落としても仕方ない。結局、どぶ板を踏んで、握手をして回って、電話をかけまくって、お友達を勧誘して、という昔ながらの日本的選挙の掟を踏襲した党がしっかり得票し、無党派層のうち保守的な人たちは、みどりのたぬきならまだあべちゃんの方が信用できるわと自民党に投票して与党大勝ちとなり、無党派の左派層からは立憲民主党に一定の票が流れて、なんと野党第一党になった。という選挙だった。で、半分近い有権者は選挙に行っていない。

なんも変わりそうにない気がする。

日本とは何の関係もない話だが、遠く欧州のドイツでは9月の総選挙で極右政党がかなりの議席を取り、政権党で保守のCDU/CSUは、中道右派のFDPのみならず、左派の緑の党と初めて連立を組む話し合いを始めている。それぞれの政党のイメージカラーがそれぞれ黒、黄、緑なので、その3色が国旗であるジャマイカになぞらえて、かの地のマスコミは「ジャマイカ連合」などと呼んでいる。なんともダサい比喩だが、それもドイツっぽい。

1980年代から水と油の関係だった政党同士が連立を組めるのかどうかということで、話題と議論沸騰の模様だが、日本と違って立派だと思うのは、中東の難民受け入れに伴う税金の問題、環境問題の核であるエネルギー政策などと論点がくっきりとしており、マスコミも論点ありきの報道を続けているところだ。

こういうのを見ていると、議論がないままに代表預かりの実質解党が決まるだとか、税金の扱いを議論しないままになんでも国民のためにやりましょうと皆が声高に叫ぶだとか、大きい政府か小さい政府かの議論なしに二大政党制を実現しようだとか、さっぱりわけがわからない日本の政治はどうなっているんだろうと思わざるを得ない。

このブログで政治にまつわる与太話をしても仕方がないとは思うが、これではまずいと思っているんだよということは言っておきたくなったので。まだ何十年も人生がある人たちにはしっかりと考えて欲しいよ。

明日は選挙だ

明日は衆議院議員選挙だ。
政治的信条に無自覚な典型的ノンポリ無党派層の私は、「〇×党ーっ!、きゃー!」みたいな感情はどちらの政党にも持っていないので、選挙の時は政権与党が無茶をできない程度に節度を保ってもらうために、野党で勝負できそうな候補者に一票を入れる、あるいは、重要な争点となる政治課題があるときは、その是非で一票を入れる、というような感じで投票をしてきた。それを方針と呼ぶとすれば、立派な方針の下にきちんと投票を行ってきたともいえる。

そして、今回の選挙では財政再建をしっかりやります、と言う党に一票を入れようと考えていた。

今を去ること36年前になるのかしら。大学生の私はある週刊誌でアルバイトをしていた。その時にたまたま日本の財政、国債の積み上がりを危険視する記事のチームの手伝いをやらされ、去るこの道の専門家に電話取材をしなければならなくなった。文学部の学生だった私は日本経済のことなど何もわからず、何もわからないままに、質問の意味さえ不確かな質問をでっちあげ、その専門家に電話取材を試みた。

専門家とどんなやりとりをしたのかは具体的には記憶にないが、インタビュー自体が冷や汗ものだった感触はじんわりと残っている。そういう感触は得てして残るものだ。しかし、専門家は素人の若造にも非常に懇切丁寧で、たいへん分かりやすい説明をしてくれたはずで、彼が最後に語った一言が何故だか記憶に残った。
「このままだと20年後、30年後には日本と政府は大混乱ですよ」
専門家はそう言ったのだ。

専門家は、だてに専門家ではなかった。日本の財政の問題は10年、20年と経つごとにどんどん悪くなり、ニュースのネタになり、大きな問題だと誰もが言うようになった。30年経って、それはますます悪くなった。だから、40年目にはさらに悪くなるだろうし、50年後にはもっと悪くなるのではないかと心配してみるが、不安は増しても本当にどうなるのかは素人に分かろうはずがない。今日の経済学者やエコノミスト、経済記者の中には、日本の赤字は民間資本の積み上がりが大きく、安全で破綻しないというようなことを言う人たちがいて、じゃ、このまま心配しないでいいのかなと、ふと思わされたりするが、別の専門家は、そのうちにヤバいことになると言う。どちらが正しいのかはまるで分らない。

どちらが正しいのかは分からないが、世界各国を見渡して、その数字が特異であることは間違いない。そして高齢化が進んで社会保障費がロケット・ハイの状態になりつつあることも疑いない。だから、社会保険料の負担基準だとか額だとかを見直すとか、消費税の導入だとか、その税率のアップだとか、静かにできる範囲で処置はちゃんと続いていて、やっぱり財政がこのまま悪化していっていいということはないから、少しづつ是正してきましょうということを歴代政府や財務省はやってきている。やっぱりヤバいんだよ、きっと、と私は思っている。

なのに。今度の選挙は消費税を上げると言っていた与党が、そこから借金返済に回さないで教育目的に使うと言い出し、同じ保守のみどりのたぬきの党は消費税は上げないといい、もう一つの保守党は、消費税を上げる前に行政改革だと言って、やはり先送り派だし、分けわからん民主党から昔の社会党に戻った、かつて言うところの革新政党は消費税は上げないというが、そもそも経済政策はたぬき党同様で選挙民にあんまり説明がないままだし、共産党共産党だし、みーんなみんなポピュリストだ。財政再建をどうしようという議論が、せっかくの選挙なのにほとんど何もない。

私自身は先がどれほどあるか知れない身なので、関係ないと言えば関係ないが、子供の代、その子供の代、さらに続く世代に禍根を残さないために選挙の時ぐらい、もっと長い視点でこの国をどうするのかについて考えを聞きたいし、そうした議論を聞きたい。原発だってそうで、原発怖いではなくて、30年後のエネルギー供給をどうするんだ、化石燃料を燃やし続けて炭酸ガスを出し続け、地球の温暖化を進めていることとのトレードオフをどう考えるんだ、みたいな話を選挙の時ぐらいしつこいぐらい繰り返して聞きたい。

なんてことを考えると今回の選挙は、常に増して投票する政党がない。個別に候補者を見て、耳当たりのよい理想を語るだけの候補者から×をつけていって、できるだけ具体的な政策を語れる人を残すという風に考えるしかないと思っているが、その政策の先に私の理想とは異なる世の中が実現されるような候補者しか残っていなかったら、さて、どうしよう。

ノット指揮東京交響楽団のハイドン、モーツァルト

前日まで熱が出たり、胃痛が続いたりして、これはコンサートに行くのは無理かなと思っていたら、朝起きると予想に反して気分はすっきりとしており、初台のオペラシティまで出かけてきた。

ノット指揮東京交響楽団のこの日の出し物は、ハイドン交響曲第86番、チェロ協奏曲第1番、モーツァルト交響曲第39番という古典派の名曲集。タケミツホールの舞台裏の席に陣取ったのだけれど、すぐ下の舞台から立ち昇るオーケストラの音に包まれて、上等の時間を過ごすことができた。チェロ協奏曲のソロは、イェンス=ペーター・マインツ。この人はドイツ・カンマーフィルと入れたハイドンのチェロ協奏曲の録音がある。

ハイドンモーツァルトの音楽をライブで体験するのは、それだけで楽しい。楽しいというか、音楽が鳴っている最中に体の細胞がじんわりと活性化し続けるような、混じり気のない高揚感を覚える特別な時間になる。もちろん、そのためには演奏が平板では駄目。平凡な演奏では決して満足に達しないのが、聴き慣れた古典の名曲の気難しいところだろう。ノットと東響は、このハードルをやすやすと越えてくれるだろうと期待して買ったチケットに間違いはなかった。

私の場合、天上の音楽であるモーツァルトハイドンのイメージは、ベームカラヤン、その一世代下の指揮者の録音で形成されているので、アーノンクールやホグウッド風の古楽器的スタイルの流れが主流の今のモーツァルトに、必ずしもうまく乗っていけない部分があったりするのだが、ノットの場合、その辺りの様式に対する感性が非常にオーソドックス、かつ先進的、と言いたくなる絶妙の塩梅を聴かせてくれるのだ。ヴィヴラートは効かせないスタイルだが、リズムが溌溂として、自発性が高く、しかし20世紀のモーツァルトの伝統の上に乗って、音響以上に柔らかく自然な流れを作る。保守的リスナーにも、革新好きにも同時にアピールする音楽だと思った。イェンス=ペーター・マインツのチェロも構えが大きくて、素晴らしい演奏だった。

それにしても東響のメンバーは若い。自分より歳のいった演奏家は一人もいそうになかった。クラシック、ポピュラーに限らず、日本人の音楽センスは世代が下るほどに洗練されてきたと思う。

一方、舞台裏の席からオーケストラの向こうに広がる客席を見渡すと、今度は自分よりも若い人の数はかなり少なく見える。一般的に言って、ピアノの演奏会はもっと平均年齢が若いだろうし、オーケストラのコンサートでもマーラーではもう少し多くの層に広がる気がする。今頃モーツァルトハイドンだけしか演奏されないコンサートに来たがる層は、そういうことになってしまうのだろうか。そして、演奏家と楽団にとっては残弾だったろうことに、この日の客席は、ノットと東響の演奏会では今まで見たことがないほど空きが目立った。