「シュンポシオン横浜」で感じたこと

これはすでに一度ブログに書いたことですが、「オフ会」という言葉には、ネット上の集まりが主であり、リアルはおまけ、むしろ特別な場というニュアンスがあると私には感じられます。そもそもの語義、語源からして、あるいはものの順序からして、サイバースペースという環境ありきで出来上がった関係、そこに付随するしきたり、それらの環境に適応する技術志向のメンタリティなどをリアルの場に持ち出すという色合いが強いのが「オフ会」であるというのが、とりあえずの私の理解です。

先頃、『アーキテクチャの生態系』という本をべた褒めするエントリーを書きましたが、この本は私が漠然とながら感じていた、それぞれのメディア環境が利用者のコミュニケーションのあり方を規定する様を「生態系」というワードでくっきりと浮かび上がらせたという意味で脱帽ものだと感じられたのでした。そこには研究者の冷静な眼差しで、技術がコミュニケーションの態様を規定し、日本的なるもの純化して新しいメディアを規定している現実が描かれてもいたのでした。まいったなあと感じました。

私が感じた「まいった」は著者の直感力、分析力、表現力の冴えに対してであったのですが、同時にそれは私が嫌いな日本的なるものがあからさまに表現されている、それによって顕在化した私自身の不快感とあらたに直面させられたからでもあります。

もう少し分かりやすくご説明すると、2チャンネルや、ニコニコ動画や、携帯小説を使っている人たちのお作法やそれが利用者にもたらすメリット、利用者がそれらを活用する意図は著者が描き出すとおりだとして、私はそこに入っていく気は毛頭ないよということです。そういうことをはっきり気づかせてくれるという意味で『アーキテクチャの生態系』は素晴らしい一冊でした。

何を言いたいのかというと、いたずらにネットに翻弄されるのはよそうということです。ネットも、ブログも、あるいは「シュンポシオン横浜」のような会合もですが、単なる道具立てに過ぎないわけですから、それらを過信しすぎてリアルの自分をメディアや道具に過剰に合わせるような考え方はよそうよということです。これは単にバランスの問題だと思うのですが、じゃそのバランスの軸はどこと考えた場合、媒体とリアルの環境の乖離を面白がって楽な方向に流れちゃうのはよろしくないと、「シュンポシオン横浜」を体験してあらためて思ったという話です。