なべて世はこともなし

梅田さんのエントリーのコメント欄、はてなブックマークが普通ではないことに一昨日やっと気がついた。僕自身は「これって同僚のK君が絶対に読んだ方が良いと力説していた『新潮』のやつだな。梅田さんは今回はとくに力が入っているな」と数日前に☆をつけたはずだったのだが、とんでもない数のブックマークがついていることにはそのときにはまるで気がつかなかった。

水村さんの本は読んでいないので、それについては今日はコメントすることはできない。そのうち読んでみたいとは思っている。それにしても「はてブ」には、明らかに梅田さんが取り上げている水村作品を読んでいないと思われる人たちからの批判めいた品のない言辞が書き連ねられている。これはいったいどうしたことだろう。何がそうさせるのか。

それらの批判のほとんどは、端的に言って、水村批判ではなく梅田批判の色合いが強いように見える。僕の周囲にも、あからさまにではなくても、梅田さんのことを批判する人はいるから、それなりにその意味は想像できる。要は、「あんたに言われたくはないよ」というニュアンスだ。「あんたに」というのは「あんたは日本文学の研究者でも、文芸評論家でも、国語教育者でもないだろう。黙っててよ」という感じだと思う。さらに、もっと言えば、「あんたのその高飛車な調子が気にくわないんだよ。みんな買って読めとは、いったい何様のつもりだよ」ということだ。

日本は自由に意見を述べることに対して大きな規制が働く社会である。迂闊に意見を述べようものなら、どんな揚げ足取りがされるか分かったものではない。だいたいそれは陰口のかたちで行われる。あるいは攻撃対象からの反撃が期待できない安全な場所にいると分かっている場合に行われるという傾向を持つ。日本の社会のネガティブな部分だ。ブログのような誰もが意見を表明できる仕組みであれば、嫌いな論者は出てくるし、実際僕にも「読みたくねー」と思う人はたくさんいるが、そういうのは黙って無視すればよい。読まなければよいのだ。批判をするのならば、相手に失礼のないように覚悟を決めて正々堂々とやるべきだろう。

梅田さんに対する批判的な眼差しを見ていると、いつもアメリカ駐在を終えて日本に戻った当時の僕自身のことを思い出す。帰国前には、子供の日本への再適応をいろいろと心配していたが、「絶対に逆カルチャーショックが大きいのはあなただ」と女房にさらりと言われていたのは大当たりだった。アメリカで振る舞っていたのと同様、べつに誇張もてらいもなく、自分自身としては普通にコミュニケーションをとっているつもりが、うまく受け入れられない。とくに仕事上のクライアントさんに対してそうで、「おまえ、業者のくせに生意気な口を利くな」という目で見られるのである。仕事をもらう側はあげる側よりも立場は下で、下は下なりの口の利き方があるだろう、ルールを守れよ、てなもんである。なんと後ろ向きで、嫌な社会だろうと自分の国のこと感じるのは嫌なものである。その嫌な感じはいまだに自分の中にある。

では、どうすればよいか。「すみません」と常に頭を下げていればよいのである。そして、それが今、僕が日常の中でやり続けていることに他ならない。会社の上司にも、同僚にも、お客さんにも、パートナーにも、道をすれ違う人にも、ごくまれに渡ろうとしている横断歩道でやってきた車が止まってくれたときにも、「すみません」、「すみません」と言って頭を下げていればこの社会では物事が進むのである。主張を行うのは権威を持つ者、権力を持つ者の特権であり、下は上の言うことに従い、決して口答えせず、上はその構造をよく認識して権威にふさわしい身振りと神々しい発言をしなければならないのである。ITのコンサルタントが専門外の日本文学のことを楽しそうに、あるいはえらそうにブログで紹介してはいけないし、むろんこと、僕のような何の取り柄もない人間が音楽や読書のことについて生意気なことを書いてはいけないのである。僕が子供の頃の日本はそうだったし、20歳の頃の日本もそうだった。インターネットの時代になって日本はやはりそうなのである。おそらく20年後も、30年後もこの根っこの部分は何ら変わらないだろう。

下記のエントリーの中で、ピアニストの内田光子が語ったと僕が覚えているひと言、「日本? だって日本に自由なんてないでしょ」について紹介した。僕の気分はまったく変わっていない。


■梅田望夫さんにお会いする(2006年7月26日)


めでたし、めでたし。なべて世はこともなし。