人間、違うのが当たり前だ

このブログは控えめに見ても3分の1は『三上のブログ』とのブログ同士の交歓によって成立している、させていただいていると僕自身は感じているのですが、昨日書いた内容に関して頂戴した往復書簡的エントリーにまたまた感じ入りました。


三上さんはこうお書きになっています。

中山さんの姿勢は、私とはある意味で対照的だ。しかし、だからこそ非常に面白いし、惹かれるのだと改めて思った。
(写真の倫理とブログの美学:『横浜逍遥亭』の場合(『三上のブログ』2006/10/21)


なんと颯爽とした美しい言葉でしょう。
他人の立場を認めるのは民主的な世の中が成立するための最初の原理・原則であるはずですが、日本でこの原則が社会の規範として確立されているかと考えると、どうもそうとは思えません。本音のところで日本は民主的ではないということになるのだろうと思います。


例えば、会社の中で役職が上の者に意見をすること自体が忌避される状況は今でも多くの組織に残っているでしょうし、そもそも「会社の方針を浸透させて全社一丸となって頑張ろう」というビジネスの論理(それ自体はまったく正しいと思います)が、社員個人の倫理観の領域にまで侵犯することを許す風土は歴然と存在しています。公共ということについてのコンセンサスが私たちには明確に存在しておらず、公と私の区別をしっかりと行い、状況に応じて身の処し方を選び取っていく生活のための手法が社会の中で確立されていないのだと思います。この点で、アメリカやヨーロッパに比べて日本ははっきり遅れていると僕は感じます。


今、マスメディアを賑わしている福岡や北海道の学校におけるいじめの問題は、こうした日本の前近代性が個人の死によって露わになった痛ましい出来事です。テレビを見ていると、学校が悪い、教育委員会が悪い、特定の教師が悪いと問おうとする世論の方向が見えますが、そもそも悪いのは個人を個人として認めたがらない日本というシステムなのですから、この期に及んで教師一人の欠陥をあげつらっても仕方ありません。いまこの瞬間に、お前は違う、違うのはおかしいと後ろ指を指され、あるいは暗に指摘されて苦しんでいる者がどれだけいることか。それらの者達の救済をまじめに考えるならば、10年、20年の計が必要なはずです。真面目に取り組みを始めないと、つまり日本の社会は「変わった奴はいらないから死ね」と暗黙のうちに言っているのと同じですから、犠牲者の数は積み上がるでしょう。運動を起こしても、社会の規範を変えるのに時間はかかる。しかし、ポリシーがなければ、時間だけが経って何も変わりません。


みんな同じじゃないと不安で不愉快を感じてしまう幼児的な感性と、そうした感性と表裏一体で存在する集団主義的社会規範を乗り越えない限り、この国に大きな未来はないと思います。だから、梅田望夫さんが主張するシリコンバレーへのエンジニアの移住計画には諸手をあげて賛成するのです。若い人は、ITで頑張るならば、がんばってシリコンバレーを目指してほしい。そんな人たちが増え、日本に戻る人もたくさんいる状況が当たり前になると、少しずつ日本も変わるはずです。10年、20年ではないですね。こういうことにはやはり百年の計が必要になるように感じられます。


まずは人は皆違うこと、一人一人の意見が違うことを認め合うことから始めたい。というわけで三上さんの言葉は僕に実にストレートに、気持ちよく響いたのでした。


【今日の写真】
昨日はああ書きましたけど、こうした説明的な写真には、気分に応じてコメントを入れたいと思います。
写っているのは何の変哲もない水田ですが、横浜も醜く家だらけになってしまい、こうした光景がほとんど姿を消してしまいました。我が家のそばにある、この公園は昔ながらの横浜の田園風景が広がる谷間を市が買い取り、そのまま公園として整備をした場所。横浜では水田も博物館の展示品なみになっているわけです。