「HASHIGRAPHY」とは何か

正直言って「HASHIGRAHY」は晦渋である。もし、『HASHI[橋村奉臣]展』が「HASHIGRAPHY」だけで構成されていたら世間の展覧会に対する受け取り方はどうだったかと考えてみる。地味で内向的な作家・橋村奉臣がこれほどの話題を獲得するのはやはり難しかっただろう。僕自身、このブログの中で何度か『HASHI[橋村奉臣]展』のことを書いているものの、そこで話題に選んでいるのは「アクション・スティル・ライフ」である。HASHIさんには申し訳ないけれど、「一瞬の永遠」を初めて見たインパクトはあまりに苛烈で、その印象を抱えたまま洞窟のように極端に照明を絞った「HASHIGRAPHY」の世界に迷い込んだ鑑賞者は、正直なところ軽い戸惑いを覚える。

「これが同じ作者の作品?」

明と暗。鮮度と渋み。展示空間のレイアウトの手法を含めてまったく相反する二つの世界が必ずしも広くはない展覧会場の中に広がる。


ところが何度か会場に足を運ぶうちに、いつしか雨だれが閑かにしたたりおちるような「HASHIGRAPHY」の滋味に囚われている自分を発見することになった。それらの写真の多くが、記憶に止め置きたい作品、記憶を刺激する作品となって。


瞬間を記録するという写真の特質を極限まで究めた果てに、変色したダゲレオタイプのイメージを模倣するようなスタイルを新たに創造する。これはどういうことだろうか。作者は千年後の視線が照射する現在を表現したいのだとこれら作品の制作意図を語るのだが、そうした作者自身の言葉による物語の付与は必ずしも鑑賞のために必要だとは感じられない。僕自身は作者の解説を読む前にまず写真に接して「美しき過去に沈んだ現在」という言葉で「HASHIGRAPHY」をまず捉えたのだが、いずれにせよ言葉によるレッテル貼りはあまり重要ではないように思われる。時間をかけてこれらの作品群と対峙していると、ほの暗い照明の中からゆっくりと浮上する強烈な個性が、まずは言葉による物語を排除していき、その後に意識に上る純粋なフォルムのオリジナリティが静かな恍惚を運んでくる。


HASHIさんが新たな創造の地平を目指して「アクション・スティル・ライフ」とはまったく異なる芸術表現を追求したときに、「HASHIGRAPHY」に辿り着いたのは何故だろう。本人に尋ねれば違った答えが返ってくるかもしれないが、僕には瞬間を相手にし続けてきたHASHIさんが時間に関する思念を拡張した結果として「HASHIGRAPHY」に行き着いたというよりも、むしろHASHIさんの絵画への志向が不可避的に絵画的な処理を可能にするモノクロの「HASHIGRAPHY」を選び取ったという風に感じられる。HASHIさんの作品に共通する絵画的な構図、画面構成への感覚を思うと、あながち大きくは間違っていないだろうと思うのだが、どうだろうか。


鮮やかな色の世界である「アクション・スティル・ライフ」を中心とした『HASHI[橋村奉臣]展』の第一部『一瞬の永遠』のなかでも“絵画”はHASHIさんのスタイルを支配しているように思われる。作者の絵画への志向と造詣がもっとも分かりやすく表れているのは、『Hawaian Dream』と題された作品だ。これは南洋の島への連想を誘う大輪の花一輪を被写体に、その背景に水彩画調の黒の滲みを画面いっぱいに表現した作品である。あからさまに色鮮やかな水彩画の世界が展開される作品である。


さらにもう一点。『Rescued Bottle』という作品にも絵画的な効果が顕著に表れている。この作品は、自然の汚れや汚水がしたたる、拾ってきたばかりと見える瓶をワトソン紙やワットマン紙のような水彩画用紙とおぼしき目の粗い紙の上に置いただけの作品である。注目すべきは、そこにこぼれ落ちる汚水が真っ白い紙の上で綺麗な文様を形作っていることだ。汚れた水があたかも水彩画そのもののように美しい滲みを描く。この意外性の表現は、今まで出会ったことがない独自のものだ。これは写真だけに関心を集中していたのではありえない、写真と絵画がクロスオーバーする感性だけが生み出すことができる異色の表現である。そう考え、あらためて振り返ると、『一瞬の永遠』のすべての作品はどこかでオランダ絵画の、魔術的な光の処理の上に成り立つ静物画の世界につながりを持つ、現代ならではの新しい絵の具(=超高性能撮影機)を使った絵画作品にも見えてくるのだ。


そして「HASHIGRAPHY」。これらは誰が見ても写真が絵画へ溶けていく過程を示した作品たちだ。二つの異なる作品群をくぐり抜ける鑑賞者には、一瞬に向かい合うことを余儀なくされる「アクション・スティル・ライフ」とは正反対の、手作業を含む制作の過程を経た作家が心のバランスを獲得する過程を追体験するかのようにも感じられる。僕自身が好むのはエッフェル塔を写した一枚と、自動車が駐車するローマの路上を写した『One』と称する作品。オルセー美術館から見えるサクレクール寺院もすごくいい。より大胆に絵画的なデフォルメが施され、ハイキーな雰囲気に仕上がった作品に僕の嗜好は傾く。これらの写真なら毎日見て過ごしたいと思ってしまう。


さらに「アクション・スティル・ライフ」と「HASHIGRAPHY」には、相反する表現でありながら、一人の作者による偽ることができない表現上の同一性を示している点がある。それは、両者ともにごく当たり前の被写体が選ばれている点である。「アクション・スティル・ライフ」が扱うのはシャンペン、ガラスのコップ、瓶、レモンなど我々の周囲に普通に存在しているモノの世界。一方の「HASHIGRAPHY」では、エッフェル塔サクレクール寺院サモトラケのニケロダンの逸品など、誰もが見知っている有名な風景、事物が好んで取り上げられている。僕は、被写体を可能な限り消し去りたいという作者の意識と無意識の境目に存在する願望が、その背景にあるのではないかと感じているのだが、これは深読みのしすぎだろうか。何を写したのかということに対して鑑賞者の注意が最小限に働くようなおなじみのモノを相手にすることによって、方や一瞬の閃光が生み出す偶然のフォルム、方やそこに作者の意図を塗り込める手仕事によるフォルムへと視線の行く先を誘導する。いずれも誘導される先にあるのは作者のイマジネーションだ。


こう考えると、まったく対照的に見える二つの世界は明らかに一つの人格の二つの側面であると納得できる。『HASHI[橋村奉臣]展』は見事に創造という行為の可能性の幅を見せてくれた展覧会だ。ここには人を鼓舞する力がある。