年齢

地下鉄の路線図とガイドブックを一生懸命見比べている大柄な白人のお兄さんがいたので、「どちらまで?」と声をかけたら、彼が行きたい場所は僕が降りる駅で乗り換えることが判明。そこまで連れて行ってあげることにして、4つ先の駅までおしゃべりをしてすごす。


彼はイタリアのバドヴァ大学で建築を勉強しており、三重にいる知り合いを訪ねて来日、関西をまわって東京見物に来たところだという。「イタリア、一度だけ行った。二十年以上前だけど」「どこにいったの?」「ヴェニスだけ」などとあたりさわりのないやりとりをしたところで、彼は急に話題を変え、「ずいぶん若く見えるんでびっくりした」とおっしゃる。「アジア人は若く見えるんだ」と僕。これまで何度も言われているので、慣れっこになっているフレーズである。このブログを欧米、中東で読んでいらっしゃる方、海外の経験がおありの方、身に覚えがある方いらっしゃるでしょう。


もう7,8年前になるけれど、仕事の帰りにアムステルダムを通った。夕食後、一人で散歩としゃれこみ、いかにも大衆的なバーに飛び込んでハイネケンを飲んでいるときに、カウンターの向こうにいた従業員のお姉さん相手に「アムステルダムはもう15年ぐらい前に来て以来なんだ」といったら、「ずいぶん若いときに来たのね」と相手が返事を返してきた。僕はそのとき二十歳過ぎはたしかに若いよなあとグラスの向こうを見つめながら感慨にふけっていたのだが、後で考えたら、どうやら彼女は僕が小学生低学年の時に来たのかと言っていたのだ。たぶん。


ニューヨークでコロンビア大学に行ったときにも、大学の正門そばの学生向けのレストランでビールを一本頼んだら、「身分証明書見せて」と言われてがくっときた。そのときはちゃんと背広にネクタイだったのに、欧米人はほんとアジア人の歳を分からない。欧米に行くとそんなことばっかり。


ところが、この前、勤め先の役員秘書さんにまで「中山さん、もっとお若いかと思っていました」と言われてしまい、俺の歳はアジア人のお嬢さんにも分からないのかと卒然と立ちつくすことになった。まぁ、こんなに肌がぱさぱさでシミだらけになっても、そう言ってもらえるのは喜ぶべきか、けっきょく俺って年相応の貫禄のかけらもないのね、と悲しむべきか。


先日『島ノ唄』で見たばかりの吉増剛造さんのお顔を思い出す。少年のまなざしをたたえた賢者。どうせなら、あのように年齢を超越するようにして歳を重ねてみたいと思う。そうはとんやがおろさないだろうけれど。