塗り替えられていく記憶、常に新しい記憶

撮った写真を最初に見たときに「実物と違う!」という違和感を持つという話を昨日書いたけれど、多くの場合、次の瞬間にはその写真に目は奪われ、その撮った写真を記憶する以上のことができなくなる。実体験は写真によって上書きされてしまう。

しかし、中年になって記憶力が減退している僕は、せめて写真を見ないかぎり思い出すものがないことが当たり前の日常に足を踏み入れてしまっている。いや、ほんとに見事に忘れる。数日前の出来事すら、ヴェールがかかっているのは普通のこと。一年前のことになれば、いったい何を覚えているだろう?

写真やライフログは僕のような記憶力の減退している者に記憶を、過去を保証してくれるだろうか? 写真は撮られたその瞬間に本当の体験を上書きする性質を持つのであれば、ライフログとして残るのは、偽の記憶と言えなくもない。ブログも大きな意味では、そうした記憶装置として機能するわけだが、ここに記録されているエントリーを読んで、自分の書いたもののような、そうとは思えないもののような気がするのは、記録されたとたんに混じる嘘のせいだろうか? それとも僕の記憶がどんどんおぼろになっているせいだろうか?

そんなことに思いをめぐらしていると、統一した自我が保証する一貫した意識、持続する記憶、どこかに保持されている古い記憶といった考え方自体が、どうやらナイーブに過ぎるらしいと思い至るのである。もう僕は「いやー、白馬大池よかった!」という自分の声に絡め取られ、「よかった!」という認識の前に、池畔を吹く風の冷たさや、傾きかけた太陽を反射する残雪にまつわる実感が、かすかにこぼれ落ち始めているのを感じる。