敗者たちのオリンピック

バンクーバー・オリンピックは、パソコンのケアをしながら、よくテレビ観戦しました。うまく土日にあたった上村愛子モーグルなど一部の競技を除けば、ほとんど夜に放映されるダイジェスト版での観戦なので、ライブの持つ言いようのない緊張感は望むべくもありませんでしたけれど、けっこう引き込まれました。そもそも冬のオリンピックを一所懸命に観たのはアメリカで観た長野オリンピック以来でしょうか。モーグルも、カーリングも、スピードスケートも、それからフィギュアスケートも、観ていて実に面白かった。

長野オリンピックの時には、ジャンプの団体で日本チームが金をとったときに、「今日の日本のテレビはどのチャンネルをつけても、朝から晩までジャンプの金メダルのニュースしかありません」とアメリCBS放送のキャスターが呆れるように、でもその実好意的な表情で語っていたのを覚えています。アメリカで観ていると、日本選手で映るのは清水とジャンプぐらい。たまに日本の選手が映ると「がんばれ!」とマジな愛国者になって応援したものです。

私たちの世代にとっては、冬のオリンピックといえば、圧倒的に札幌の印象が強く、いまだに当時のエピソードは記憶の倉庫から容易に呼び出せるほどです。ですので、一昨年に三上さんを訪ねてはじめて札幌を訪れた際に、真駒内スケートリンクを遠方に眺めたときには、「札幌オリンピックの土地に来たのだ」という感慨が湧いたものでした。

当時はもちろんのこと、最近までスポーツを見ていると誰が勝つかしか関心がありませんでした。でも、最近は、むしろ勝った選手にはそれほど強い興味は湧かず、負けた選手のコメントに引きつけられるものがあるのを強く感じます。今回のオリンピックはまさにそうで、そもそも冬の大会は「メダル、メダル」とさわぐメディアの、明らかに過剰な期待故に負けた者のコメントを聞く機会が多いと思うのですが、上村愛子さんの「なんで一段一段なんだろう」というのもよかったし、スピードスケートの女子団体パシュートで金を逃した穂積雅子さんの「もう少し足が長ければ」というコメントもよかった。銀メダルをとりながら、世界で2番の地位に悔しさを隠さない浅田真央さん、「初めてソチではやってやろうという気になりました」と語った高木美帆さん、涙で声にならなかった織田信成くん、それぞれに印象的でした。

トルストイは、「幸せな家庭は相互に似通ってるけれど、不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である」と書きましたけれど、オリンピックで語られる敗者のコメントはまさにそれぞれの仕方でバリエーションと独自の陰影があり、心に落ちていく何かがあるのでした。私たちは人生のさまざまなポイントで勝ったり、負けたりを繰り返しますが、チャレンジをするかぎり、どこかで負けを経験します。ごくまれな一部の人々、あるいは飛び抜けてぼんやりしている一部の人々を除いて私たちは常に敗者であることを義務付けられている。国内では無敵のヒーローですら、世界の舞台では勝利を望めないことが少なくない。おそらく負けることに意味を見いだす者はよく生きる者であるはずです。