ガッツポーズは青春ドラマであり、敗戦の涙は青春小説であるという説

「ガッツポーズして咆哮できる人生って、スポーツしかないのだなとあらためて思いました」とこの前のエントリーのコメント欄でせるげいさん(id:sergejO)が書いている。そんな普通誰も考えないようなことを言葉にするせるげえさんの面白さに脱帽しつつ、こんなことを考えた。

「ガッツポーズして咆哮する」なんて、たしかにフツーの人生の中では誰もしない。電車に乗っているときもしないし、テストでいい点を取ったときもしない。ところが、NHK高校野球を見ていれば分かるけど、先取点を叩き出した二塁打を打った佐藤クンは、判で押したように「ガッツポーズして咆哮する」んだよね。昔に比べて、それは明らかに様式化していると言っていい。

「ガッツポーズして咆哮する」が一つの様式だとすれば、それは何かあらかじめ定められた規範にに則った行いということになる。それは何か。ということを僕はせるげえ旦那の一言を通じて考えて、「青春ドラマしかないじゃないか」と思った。夕日に向かって叫ぶ、砂浜を走り叫ぶのは、かつての青春ドラマの常套表現手段である。「ガッツポーズして咆哮する」高校球児やオリンピック選手は、その種のお気楽通俗ドラマのヒーローを模倣しているというわけだ。「ガッツポーズして咆哮する」映像を見て、感動することがほとんどない理由はここにあると僕は思う。それはダサイでしょ、あまりに薄っぺらいでしょ、と思うわけ。

それに対して、強大な敵に立ち向かい、死力を尽くした後に、力及ばず、敗戦の憂き目にあう姿には、すべてにそうだとは言わないけれど、感動を誘うものがある。今日の昼過ぎ、横浜市営地下鉄の座席でポール・オースターの『ムーン・パレス』を読み終わり、普段のオースターからは信じられないような、まっすぐな青春小説だったことに驚きつつ、先のエントリーを書いた直後の僕が考えたのは、つまり「オリンピックの美しさは、良質の青春小説のそれなのだ」ということだった。

青春小説とは何か。それは端的に挫折と再生の物語だ。主人公が大きな痛手を受けながらも、明日への希望をその体験を通じて獲得しつつあることをほのめかして青春小説は終わる。青春小説もオリンピックの敗戦も、「たいへんな目に遭い、傷つきながらも、人生はそこで終わらない」ことが筋書きの前提なのであり、感動の源泉なのだ。トーマス・マンの『魔の山』、北杜夫の『幽霊』、村上春樹の『風の歌を聴け』、ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』。読者が主人公の行く末を思い、小説の続編を自分で書きたくなるような小説。

同胞が檜舞台で勝つのは嬉しいけれど、それだけを楽しみにするのはオリンピックを見る作法としてはつまらないんじゃないという話でした。


ムーン・パレス (新潮文庫)

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