iPhoneを買ってからというもの

一昨年の12月にiPhoneを買ってからというもの、読書の量があからさまに減りました。私の読書は、通勤の行き帰りにかなりの量を読み、その続きを寝る前に少々、というスタイルだったのですが、胴体がなくなると続きもないわけです。iPhoneでかちゃかちゃとWebを行ったり来たり。知り合いの皆さんのブログを読み、日米のニュースサイトを眺めることで時間は過ぎて行きます。

iPhoneにはニューヨーク・タイムズだとかタイムズ、ウォールストリート・ジャーナルなどがよく出来たクライアントを用意してくれているので、英語のニュースを読む時間は確実に増えました。こちらは普通のWebサイトですけど、西日本スポーツのホークス欄なんてのもきちんとチェックしています。

こういうことをしていると、必要に迫られない読書はしなくなるものです。まるきりそれが悪いという話ではないかもしれませんが、やっぱりまずいんじゃないかとあらためて思ったのは、久しぶりに仕事とは関係のない、趣味の文学書読みを電車の中で数日繰り返し、ふと気がつくと自分のまわりで違う種類の風が吹いているという感覚を味わったからです。これは、別にその対象が読書である必要はなく、ともかくも自分の普段の行いとちょっとだけずれたところに、日常とは異なる色合いの思想的体験をする機会を置いておくのは意味がある。そういうことなのだと思います。人間の思考は、普段の行いの中に簡単に染まってしまうので、もちろんそれで万事オッケーなら何の問題もないのですが、自分が置かれている状況にきつさを感じるときに、ちょっと頭を柔軟にしてくれる機会を持っているというのは、思いの外大切なことなのではないかと考えるのです。

で、今回私がたまたました読書体験というのは、池内紀さんが十年ほど前に出した『ファウスト』の新訳なんですが、訳の善し悪しはさておいて、当たり外れのある新刊本よりも、読書は古典だなと、いつもの単純さで私は考えたのでした。くだらない本を作ったり、読んだりってのは馬鹿みたいだと。そろそろ何を読まないで済ますのかをまじで考えなくてはならないぞと。

通勤電車→iPhone→海外のできのよいソフト→新聞記事読みという通り道がとてもしっくりくるのに対して、通勤電車→iPhone青空文庫用クライアント→日本の古典という通り道は無理があります。どうやらiPhoneは『行人』といった長い小説を読む道具ではないのです。じゃ、iPadはどうよ。iPad青空文庫用クライアント→『行人』というルートがあるんなら、わたくしふたたびリンゴ印の軍門に下ってもいいだけどと思ったりしています。単純なんです。