ハウツー本の時代

あらゆる分野の本を陳列している大きいお店は別にして、例えば私の住んでいる街の駅にあるような中くらいの規模の本屋さん、あるいはそれ以下の本屋さんを徘徊していると、なんだか複雑な気分になります。かつては、本屋さんって、もっと夢のある場所だったような気がするからです。私が禿げた50歳の親父になって、夢が小さくなる年齢に突入したからそう思えるのか。もちろん単にそうである可能性もあるのですが、明らかに本屋さんに置いてある本が変わってしまいました。なんというか、ハウツー本みたいなものばっかりだなあということです。こうやったら人生うまくいく、日常うまくいく、という類の書物が幅を利かせ、文芸は二の次になってしまった。30年前はそうではなかったはずです。もちろん、その当時から、もっと以前から、ハウツーものは確立した分野としてありましたが、当時はそれらの前面に新しい文芸作品があった。本屋さんはそられに接する場所でありました。それらを目指して、新刊本を供給する本屋さんに足を踏み入れるのは、日常に存在する、地味ながらたしかな喜びのひとつだったように思います。

それが、いつの間にやらカツマ本みたいなものこそがメインストリームになってしまった。あらためて、そこそこの規模の本屋さんを歩くと、みんながこうした知恵を本に求めているのか、我々大衆の欲望の平均値はこうしたかたちをしているのかと複雑な気分を覚えるのです。

このことは、私のような文芸好きにとってやれやれな事態であると同時に、おそらく生活のための知恵の習得に敏感な人たちでもやれやれな事態であるはずです。なぜならば、日常を生き抜くための知恵は一義的には本から獲得するような案配でよいはずがないからです。あらためて、そのことを思ったのは、先週1時間ほど足を向けた金城さんの「わいわい」(http://simplea.cc/waiwai.html)でのことでした。生きの良い、生きるための知恵はその道でしのぎを削る人たちの生の声にこそある。双方向のやりとりのなかにこそある。ハウツー本にではなく。ハウツー本を読んでいても、ハウツーにとってもっとも肝心なもの、つまり情報を操る知恵や勘所が身につくわけではありません。それを目指して人々が本屋さんに集まる事態があるとしたら世も末だと申すべきなのです。おそらく。