ニヒリズムは敵だ

芸能雑誌の『平凡』で一世を風靡した凡人社(のちのマガジンハウス)の創設者、岩堀喜之助の伝記である『マガジンハウスを創った男 岩堀喜之助』をある人から勧められた。「面白いからお読みになってみたら」と。また「読んでいて、実は中山さんのことを思い起こしたんですよ」ともおっしゃる。どうもブログ活動のことを念頭に言っているのらしい。謎をかけらた手前、やはり読まないわけにはいくまいという気分になった。戦後の混乱期に仲間と『平凡』を刊行し、押しも押されぬ戦後大衆文化の担い手となった人物の人生を総括した読み物である。

情に厚く、勤勉実直、豪放磊落な実行家で、我が国の情報産業の歴史の中に専門大衆誌という道筋を付けた岩堀喜之助という男。この人物から、僕のような凡人につながるものはほとんどないというのが率直な感想である。ただその上で、今の自分自身と岩堀とを無理矢理結びつけるとすれば、岩堀が雑誌を土台にした大衆の組織化に熱心だったという事実を指摘するしかない。しかし、Bさんと僕が会ったのは4月の半ば。「横浜会議」だの、「シュンポシオン横浜」だのといった言葉を撒き散らしはじめる前のことだ。

岩堀らが凡人社を立ち上げ『平凡』を始めた当時、雑誌といえば有名作家を頂いた文芸誌、総合誌の類と相場が決まっていた。『平凡』も例外なくそうしたものとして始まるが、幸先こそよかったもののすぐに大手との競争に揉まれて経営は危機的な状況に陥る。にっちもさっちもいかなくなりかけた矢先に読者に人気の歌と映画にフォーカスした娯楽情報路線を思いついて、これが大当たりをとり、大衆向け雑誌の黄金時代に先鞭を付けるのである。その後の『平凡パンチ』、『an.an』、『ポパイ』、『ブルータス』、『クロワッサン』など同社のその後の雑誌を思い起こすと、特定の切り口による大衆クラスターの発見と媒体とを結びつけるという方法論は『平凡』以来の伝統ということになる。

同書によれば、岩堀という人は時間があれば読者はがきを読んでいたのだという。そこから読者のニーズを汲み取り、企画に反映させていく。潜在的なスターを発掘したり、思いも寄らないスター同士の座談会を取り上げたりといった様々な企画が読者のニーズの延長線上に実現される。今の時代に生きる我々には当たり前のマーケティング的な発想を、そうしたことが当たり前ではまるでなかった時代に、誰に教えられたわけでもないのに本能的に行っていたのが岩堀喜之助なのである。

その岩堀が熱心に取り組んだ試みに昭和26年に始まった「平凡友の会」運動があった。雑誌の半分の料金という安い入会金を設定して読者を組織化し、全国各地でハイキング、海水浴、映画鑑賞会といった娯楽イベントを催していく。岩堀にとって雑誌は一つの手段であって目的ではなかった。本当の目的は戦後の焦土から立ち上がった日本人の生活に心の豊かさを提供することにあった。勤勉が美徳であった時代、日本に遊ぶ余裕がなかった時代に発足した友の会のスローガンは「元気に働き、愉快に遊ぶ」だったそうだ。岩堀は「これからは平凡な我々の時代だよ」と言っていたのだという。

つまり、「大分会議」「京都会議」「名古屋会議」「津田沼シュポシュポ」「シュンポシオン横浜」といった集まりは、今から半世紀前に岩堀が『平凡』という雑誌を通じて行っていた運動の、媒体と規模とを違えた焼き直しであると言ってしまってよいのではないか、というのがこの本を読みながら僕が考えたことだった。時代はらせん運動を続けている。既視感に見舞われるのは思い過ごしではあるまい。

この本を読んでいると、つくづくネットやブログの有り難みに感じ入るのである。戦後すぐとは言わず、少し前までは、組織も金も、何らのリソースを持たない個人が岩堀のように旗を振って集まりを主宰することにはあからさまな限界があった。電波資源には希少性の壁があり、紙媒体は希少ではなくても個人が集まってそれなりのものをつくることは事実上不可能だ。平凡友の会のような全国的な広がりのある組織は当然のことながら作りようがないし、それをメンテナンスしていく手間暇や費用を考えれば、組織化の可能性は悲しいかな権力か岩堀のように商売を度外視した一部の篤志家の手中にしかなかった。それが、今や我々の手にこぼれ落ちている。我々生活者としての個人が、こうして主体的にネットワーキングをすることによって、何かをなそうとするということそれ自体、やはりウェブやブログがなければ想像すらできなかったことだ。インターネットとウェブが普及し始めると、可能性の萌芽は広く行き渡ったが、思い起こせば少し前まではサーバーを立ち上げ、必要な設定を行い、HTMLでコンテンツを記述し、といったことに知識・リソース面で何ら造作がないITエンジニアと一般大衆の間には情報発信力をめぐって大きな差異があったのである。ITリテラシーが高い人たちは得てして80年代から現在に至る情報環境を地続きだと主張するが、社会的な影響力という面ではブログが普及して超えた分水嶺があったのは間違いない。

何を今さらそんなことを書いているのかと言いたくなる向きもあろうとは思うが、「ニューメディア(懐かしい言葉!)の発展によって双方向の情報発信が可能となり、市民による情報発信が活性化する時代が到来しつつある」とする世界観が勃興していた1980年代初頭のINSの時代に、そうしたイデオロギーを補強する現場を端っこの方で見ていたかつての若者にとっては大いなる感慨を抱かずにはおれないのである。情報発信力という点に話を絞る限り、権力は徐々に移行しつつある。全体としてみれば限定的な変化かもしれないが、部分的にはドラスチックな変化が生じている。ということを実感するのに20年以上がかかった、いや20年したら本当にそうなったということに関して感慨を持たせてもらう権利はあるのではないか。

紙と鉛筆があれば、人は字を書くか、あるいは絵を描く。ここまでは相場が決まっているが、その紙に何を書くのか、書いたものをどのように活用しようとするのかとなると、彼・彼女の意図、立場、嗜好、素養、その日の気分、諸々の要素が絡み合って、道具としての紙の担う役回りは千差万別だ。

コモディティ化したネットとブログも紙と同じだ。僕のように「すごいな、不思議だな」と感心しっぱなしの輩もいれば、「用は道具だろう」と達観しているITツール利用のベテラン諸氏もいて、その辺りの感覚の違いにはかなりのばらつきがあるのだが、それはさておき問題はその先だと思っている。「すごいと思ったけど、こんなものか」と簡単に冷めてしまったり、はたまた「単なる道具なんだから、あんまり頑張る必要ないんだよ」とニヒルなポーズをとるのは、どちらもやめよう。紙と鉛筆はいきわたった。あとはそれを使って何を書くのかだが、可能性は一端が見えたに過ぎない。近藤さん(id:CUSCUS)がどちらかのコメント欄にお書きになっていたように、敵はこの国を覆うある種の空気である。弱いニヒリズムは敵だ。


マガジンハウスを創った男 岩堀喜之助

マガジンハウスを創った男 岩堀喜之助