「シュンポシオン横浜」は☆の会なのかもしれない

「志向性の共同体」という言葉をめぐって自分たちのことを少し考えてみる。
札幌の三上さんがこう書いている。

ちなみに、最近巷で流行の「志向性の共同体」にはちょっと違和感を覚えている。脆くリスキーな「共同体」とも言えないような「場」を支え生かすのは志向性ではなくあくまで賭けのようなそのときそのときの信頼=勇気、そしてその連鎖反応みなたいものだと思うから。志向性はばらばらでいいと思う。
■(「勇気が根を下ろす場所」2008年5月19日)

言うまでもなく「志向性の共同体」は梅田望夫さんの用語だが、三上さんのブログやこの『横浜逍遙亭』、『simpleA』などをめぐるネットワークのあり方を指し示す概念としては今ひとつしっくりこないなと実は僕も思っていた。昨日の土曜日、『ウェブ時代をゆく』の当該箇所を読み、遡って『ウェブ人間論』もぱらぱらと目を通し始めたら、興味深い表現、発言に刺激され、思いの外長い間ページをめくることになった。

オープンソースのコミュニティと相似形の活動がブログを介して活発化する、そこにできるのは物理的な限定を超越した「志向性の共同体」だと梅田さんが言うとき、念頭にあったのは、やはりある種の専門領域、ある種の共通した分野、トピックをめぐる活動であっただろうと僕は理解している。例えば12月に読んだ文藝春秋のおじさん向け小論に登場した架空のエピソードを思い起こすと、そこで例として取り上げられたのは、武田信玄に関するブログ仲間が一緒に山梨旅行をするという話だった。基本的には、そうした“同好の士”のつながりをネットが支えるという流れの中で語られている言葉ではないかと思う。『ウェブ人間論』の時には同じような文脈「島宇宙」という言葉がやりとりされている。

ところが、この『横浜逍遙亭』をめぐる皆さんと僕との関係は、同好の士の集まりというのとは少し違う。と言うのも、ご存じの通り、このブログで扱っているトピックは音楽、スポーツ、文学、山歩きと、書いている僕の興味のありように従って何でもござれ。このブログはこういうブログという定義付けをするのが難しいものになっている。ログを見たり、はてなスターの付き方を見ていて気がつくのは、音楽の話だと熱心に読んでくれる人、文学ネタだとスターをつける人、ブログやネットの話を喜ぶ人と、(僕が理解する)“志向性”という言葉のレベルではばらばら。限られた人数だがいろいろな興味を持つ人が来る場所になっているということだ。

この点に関しては、ブロを本格的に書き出して間もない頃に次のようなエントリーを書いて僕なりの立場表明を行っている。


■誰に向けて(2006年8月10日)


RSS検索エンジンを頼りに人が集まるブログは、「この媒体はこういう線を狙ったもの」という明確な性格付けをしなくても、それなりにお客さんを集められるのではないか。生まれて初めてネットで文章を書くということをやる以上、その線で本当にどこまでいけるか試してみよう、と考えたのである。比較的最近、ここに来始めた馬場さん(id:yuheibaba)からは「結局どういう人で、何を言いたいのだろう」というコメントをもらったが、種明かしはそういうことで、このブログを支えている動機に「何」という位相で明確なものは一つもない。ぎらぎらと何かのための情報収集をしようという人に影響を及ぼそうだとか、そういうサムシングを求める熱い人たちとお友達になろうといったことをこのブログの書き手は望んでいないのである。その点は今も変わらない。

ただ、まったく考えになかったこともあって、コメントやトラックバックはてなスターでつながる仲間意識の醸成がそれである。これはいまだに驚きだ。すでに書いたことだが、当初、紙媒体にコラムを書く感覚で始めたこのブログは、途中から知り合いの集まる井戸端でおしゃべりをしているという情景を思い浮かべながらの作業となっている。とくに強力なツールだといつも感心するのがはてなスターである。コメントを書く、ましてやトラックバックを打つのは敷居が高い、時間がない、というときにスターの一つが互いの関係の始まりをサポートする。そうやって、互いのブログを読むつきあいが始まった人たちが何人もいる。簡単につけることができるはてなスターは、むしろ正直に人の興味や共感のツボを教えてくれたりするものだ。☆で代用してコメントを書くことをさぼるというマイナスの影響もあるとは感じているが、負の面を補ってあまりある力をはてなスターは持っていると思う。

そこからさらに考えると、どうもこの“共感”ということばがキーワードかなという気がしてくるのである。三上さんの言葉でいえば“信頼”ということになるだろう。もちろん、どちらでもかまわない。スターをつける自分を少し高みから見下ろしながら思うのは、共感は互いの立場や興味の領域を超えて生じるということだ。ある人は企業に勤めるエンジニア、ある人は主婦、ある人は鍼灸師、ある人は学生と置かれた立場はばらばら。それだけでなく、興味の持ち方も、ある人は仕事に関係した専門知識の深掘りをしたい、ある人はアフターファイブの趣味の領域を豊かにしたい、ある人は起業に燃えている、ある人はただ純粋に人とのつながりを楽しみたい、とこれも人さまざまだ。

ところが、他者への共感というのは、立場どころか、興味の領域も超えて起こるのである。この人が興味を持っている詩人は僕の興味とは違うが、この人の情報追求の姿勢は素敵だなと感じて☆をつける。この人は技術系の人で僕にはさっぱり理解できない世界に住んでいるが、そこで語っている問題意識の持ち方には大いに共鳴できるものがあるなと思って☆をつける。虫なんて興味を持ったことはないが、この人のユーモアのセンス、文章の奥行きは勉強になったぞと☆をつける。トラックバックをしようと思えばたくさんの勇気がいるが、☆は少しの勇気があればできる。しかし、☆の気軽さの中に、その人の個性や物事に向かう姿勢が見えるということがあるように思う。イデオロギーやアイデアに対する共感もあれば、姿勢に対する共感も当然あるはずなのだが、今の時代、みなわっせわっせと功利的な話にばかり目を向けて、姿勢の美しさに見ほれるなんていう喜びを忘れているのじゃないか。

この種の“共感”は広い意味での志向性、トピックとはいちだん深い位相での志向性のつながりと言うことはでき、その意味ではこういうつながりを「志向性の共同体」の一つと呼ぶことは間違いではないだろうが、より実態を表す表現としては「共感の共同体」「信頼の共同体」という方がふさわしいように思う。

先日開催した「横浜小会議」はそうだったし、12月の「シュンポシオン横浜」もぜひ互いのブログで共感を共有している者同士の集まりとしたい。だから「皆さん、お友達を連れてきて」とは一切口にしない。大きい集まりである必要は微塵もない。けれど、もし“共感”をする気持ちを重ね合わせて、振幅を大きくしていこうという気持ちに共感していただける方がいれば、ぜひ勇気をふるってお越し頂きたいとも願っている。