中村孝一郎さんの講演を聴く

ご本人のブログでも紹介していただいたとおり、中村孝一郎さんの講演会に行ってきた。会場は東京タワーの真向かいにある機械振興会館のホール。20分ぐらい前に会場に着きそうだったので、10分ほど東京タワーの下層階をぶらぶら歩きする。全国の中学生、小学生が異常な密度で闊歩し、その間に世界各国からの観光客が混じる光景はおそらくここでしか見られない別世界だ。この子たちがあちこちで日本を支える日がすぐに来るんだなと思う。修学旅行、楽しんでいるだろうか。仲間はずれになっていないだろうか。何か感じるものがあっただろうか。世慣れない雰囲気にズックの運動靴を身につけた彼ら・彼女らを見ながら、たぶんその中にいるだろうもう一人の僕に対して、人生は迷いうことだらけだがともかくがんばれよと心の中で声をかける。

機械振興会館に来たのはおそらく20年近く前のことだと思っていたが、あとで考えたら2000年ぐらいに一度資料を受け取りに来ている。当時、シンクタンクの研究員として働いていた僕は、ある受託研究で行った光ファイバーを用いたあるサービスの需要予測のために必要な資料をもらいにきたことがあったのだ。その会社でやった最後の仕事だった。ここ10年の記憶はすでにぼんやりとしている。

会場のホールは天井の高い大きな場所で、僕が入ったときにはかなりの人数の聴衆が集まっていた。奥の方に移ろうとうろうろとしていたら、前の方でこちらを振り向きながら手を挙げる人影を目に留める。勢川びきさん。会場に入る前から、今日は勢川さんに会えるような気がしていた。長嶋茂雄のような動物的な勘のなせる技ではない。会議のテーマが技術開発のマネジメントに関わるものであり、勢川さんの生業と近いこと、メインの講演者が中村さんであることに勢川さんの行動力をかけ算すると「うまくいけば勢川さんに会えるな」という推測が成り立つのである。「先日はどうも」とお互い頭を下げあい、二日ぶりの再会に少しだけ照れる。

前半に聞いた大学の先生のお話は割愛して中村さんの講演について。内容は、以前梅田望夫さんがブログで紹介してくれた中村さん自身の手になるペーパーを基礎とするもの。あれを読んだ人にはだいたいどんな会だったかは容易に想像していただけると思う。僕もその文献を目にはしていたので基本線は理解していたが、ご本人の口から聞く話の生々しさ、迫力は想像を超える重みを持っていた。東北大学からシリコンバレーベンチャーにぜひとスカウトされ、開発の中心的な人物として会社の栄枯盛衰を体験した中村さんの話を聞いていると、言葉には重みがあって、発せられた言葉の重みは同じ音素から成り立っていたとしても、その人の体験や思いや眼差しによってそれぞれ異なるということをあらためて思い知らされる気がする。エンジニアの方にはどれほどのインパクトがあっただろう。

講演技術は見事なもの。ご本人が「講演は笑いをとってなんぼ」と書いているとおり、気の利いたジョーク満載で、僕は最初から最後までくすくす笑いしたり、大笑させられたりした。中村さんの思いのツボにはまっていたわけだ。また、パワーポイントの講演資料は視覚的に洗練され、会話に連動したアニメーションともども会話を過不足なく支えて我々聴衆の理解を助けてくれた。僕は仕事で有名人の講演を比較的多く聴いているのだが、中村さんの語りのうまさはトップクラスだと思った。

講演後、勢川さんと中村さんの講演についておしゃべりをしながら帰り道を歩いた。オフィスに戻る勢川さんと「では、また」と別れた後、一瞬こんなことを思った。東京タワーにいた多くの中学生たちの中には理科好きの子もたくさんいたはずだ。彼らを中村さんの講演に連れてきたらどうだっただろう。100人中98人は難しくて匙を投げたかもしれない。でも、残りの一人か二人は、「僕もこんな風になりたい」と目を輝かせたのではないか。

そんな空想から我に返ってまた思う。つまり、そうした想像に駆り立てるところが、きっと中村さんのパーソナリティであり、力なのだ。学会に集まった海千山千の専門家の耳目を問答無用に釘付けにするこのとびきり優秀な研究者が、「高専の先生になりたい」と言う言葉の意味を、僕なりの仕方で理解した瞬間だった。


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