継続するということ

トゥーサンと開高健の遅筆の話を書いたら、偶然に同じような話に出くわした。
この数日、ドイツ人の指揮者でフルトヴェングラーと親交のあったシェンツラーという人が書いた『フルトヴェングラーの生涯』を読んでいたのだが、そこに作曲家のモーリス・ラヴェルの話が挿話的に紹介されていたのだ。ラヴェルはこんな文章を残しているという。

作曲するにあたって、わたくしは胸のうちの曲想をあたためるために長い期間を当てます。この間にわたくしはその曲想の輪郭を次第に明確なものにしていきながら、作品が最終的に完成されたときの全体像や展開を考えていきます。こうしてわたくしは音符ひとつ書くことなく数年間も費やすことがあるのです。
(シェンツラー『フルトヴェングラーの生涯』 p225)


数年間たった一つの音符も残さない! これを書いた人物は、あの華麗な音の競演を自在に演出する凄腕の作曲家なのだ。これも一つの集中力の表現なのだと思うが、こうした数年にもわたる持続力を支えていたであろう自信の厚みに思いを致すと、ちょっと物思いに誘われるところがある。


それで連想が働いたのだが、一昨日、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』を観て、靴職人・山口千尋さんの仕事に感銘を受けたのだった。


20代で日本の靴メーカーを勤めを飛び出し、英国でとびきりの職人に与えられる称号を得て30歳で帰国、47歳の今は10万円から40万円という高価な注文靴にお客さんが引きも切らないという方だ。


有名職人と聞いて、鼻っ柱の強い、一家言ある頑固な人格を想像したのだが、それが少し様子が違う。オシャレなスーツをさらりと着こなす山口さんは見た目は格好いいし、何よりもとても優しい表情をしている。お客さんに接する腰の低さ、言葉遣いの丁寧さと笑顔を映像で観て、その作り物ではない姿勢に引き込まれてしまった。また、その接客の場面と、靴をつくる映像の、鬼気迫る形相との対比があまりに鮮やかなので、あっけにとられる思いがする。この山口さん、英国からの帰国後は鳴かず飛ばずで、靴メーカーや問屋にはそんな高い靴に需要はないと理解されない。最後には意を決して自ら開業した店舗がお客さんの評判を得て事業としてものになり始めるまで帰国後9年を有したのだという。


山口さんのモットーとして番組中、何度も紹介されたのが「継続することの才能」という話。「挑戦的継続」と山口さんは言う。「これまでの自分の人生にはチャンスが雨のようにいっぱい降っていたはず。その一つを捉まえられたのは継続があればこそだ」という趣旨のコメントにも、「昨日の自分は正しかったことを確かめる」という仕事への姿勢に関するコメントにも、耳を洗われる思いがした。


職人仕事はそもそも長い修練の時期がなければ実現し得ない。それにもかかわらず、靴職人の山口さんがあらためて「継続」を云々してそれが彼ならではのメッセージとして私たちに訴えるのは、彼が実践している継続が単に「靴職人が靴仕事を継続している」だとか、「サラリーマンAがサラリーマンを継続している」とは異なる位相での「継続」を問題にしているからだ。いわば括弧付きの「継続」である。


つまり、「他の誰でもない私にとってこだわる必要がある命題を、あくまで私という人格に関わる問題としてこだわり続ける」のが山口さんであり、彼のオーラの源泉だということだと思う。そのこだわりが(たまたま)靴づくりという仕事と関わっていたという風にとれば、これは我々凡人が考えるような表面的な職業選択の問題ではない。大江健三郎がいう「魂のこと」、それがこうした人において職業という形で現れたということだろう。


職業に対して真面目に取り組むというメッセージを訴える本としては、2,3ヶ月前に子供が買ってきたのを半日横取りして読んだ松井秀喜の『不動心』にも感銘を受けたのだが、山口さんは松井とは異なり、周囲の注目もなく、金銭的にも厳しい状況を己の信念だけを頼りに30代後半になるまで耐えてきた方だ。それであの優しい笑顔を維持してきた方だ。私はただただ頭が下がる思いがした。


「魂のこと」としての仕事をできない人はどうなる? 「そうなるまで仕事で努力しろ」で答えになっていないし、「『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見ろ」でも答えにはなっていない。これは今日のエントリーの範疇では持て余す問いかけだ。


■『プロフェッショナル 仕事の流儀』