鈴木久雄著『ブルーノ・タウトへの旅』

テレビ東京でドキュメンタリー制作を手がけていた鈴木久雄さんが2002年6月に上梓した『ブルーノ・タウトへの旅』(新潮社)を昨日、図書館で見つけた。タウトの生地であるケーニヒスベルク(現カリーニングラード)、彼がキャリアを積んだベルリン、終焉の地であるイスタンブールといったゆかりの地への調査旅行記をはさみながら、タウトの生涯を概観する好著。タウトの初学者にとって知っておくべきことを押さえるには絶好の書物だと思った。テレビの元制作者という方だから、番組作りがきっかけにできた本ではないかと思ったのだが、あとがきによると、鈴木さんは学生時代にタウトの著作に接する機会があり、その後、時間をかけて彼に対する関心を育ててきた方である。だから、と言ってよいと思うが、本書の語り口は抑制が利き、事実の紹介に関してたいへん丁寧であると同時にその視線には温かいものを感じることができる。

調査旅行を敢行し、数多くの文献を当たっているだけでなく、タウトが2年3ヶ月滞在した高崎で直接師事した水原徳言さんに長い期間をかけて何度もインタビューし、その証言を効果的に配しているところが本書の特色の一つとなている。

昨晩、これを読んでいると、昨日のエントリーに書いた疑問に関する疑問が解ける部分、さらに新しい興味がふくらむ部分があった。

いろいろなことを教わった。タウトはナチスが猛威をふるう文字通り前夜のナチスを危機一髪で逃れてきたこと。最初はアメリカに渡るつもりで、日本はその踏み台として考えていたこと。受け入れる日本側の文化人・実業家たちも、一ヶ月程度の滞在のつもりで彼を接待したこと。それがどのような理由か不明ながら、アメリカ亡命の道が閉ざされ、タウトの滞日延長は本人にとっても周囲の人々にとっても思いがけない困った事態であったこと。国粋主義的色彩が強くなる政治情勢の中で、タウトの生き甲斐と収入を確保するための職探しは非常に困難を極めたこと、タウトは日本文化の伝統を心底評価しながら、現実の日本が抱えるさまざまな欠点には、ドイツ人らしい合理的な批判をしないわけにはいかなかったこと、など。

ドイツで大学教授の地位にある著名な建築家が、必ずしも完全には意に沿うというわけではない仕事を与えられ、しかしその中でも仕事の上では最善を尽くそうと努力したらしいことが、鈴木さんの文章と本書の中に挿入されるタウト自身の記述によって理解できる。タウトが実業家の井上房一郎の支援を受け、彼の仕事を手伝うために滞在した高崎達磨時の「洗心亭」は、高台にある寺のわずか二間の離れだ。当時の日本人にもその佇まいは粗末に見えたらしい。しかしタウトは、六畳と四畳半の和室、風呂、台所だけの安普請に暮らしながら、与えられた工芸作品の指導という本職とははずれた仕事に対して、己のままならない境遇を押し返すかのように真面目に取り組んだようだ。

昨日のエントリーを書いた際には「ドイツで馬鹿でかい仕事をしていたタウトが日向別邸のような小さな仕事ぐらいで喜んだのだろうか」と疑問に思ったのだが、この本を読むと、当時のタウトの境遇にあっては、内装であろうが建築家の仕事に携わることができたことが如何に貴重な出来事であったかが想像できる。この仕事に関係した建築家・吉田鉄郎の書いた一節が引用されている。

こういうひどく制限された空間のことであるから、設計者としてみれば、いろんな困難にぶつかることもあろうし、従ってそのためにせっかくの設計も気乗り薄にならないとも限らないものであるが、タウト氏の場合はそういったような事が全然ないばかりかかえってこういう風な仕事であるために一層強い興味を感じてるらしくさえ思われた。
(『ブルーノ・タウトへの旅』p225より、吉田鉄郎「熱海日向氏別荘地下室の改造 ブルーノ・タウト氏作からの引用部分)

タウトはこの仕事の結果を日本を去る直前に目にして日記に書き記している。

いま私の仕事が、細部に至るまで成功しているのを見て、非常に満足した。もちろん、不手際と思われる些細な箇所や、また必ずしも適切とは言えない間接照明などは、満足のうちに入らない。しかし全体として明快厳密で、ピンポン室(或は舞踏室)、洋風のモダンな居間、日本座敷及び日本風のヴェランダを、一列に並べた配置は、すぐれた諧調を示している。いささか古めかしい言い方をすれば、ベートーヴェンモーツァルト、バッハだ。私はこの建築を、釣合においてはもとより、細部、材料及び色彩にいたるまで、成功したと信じている。
(『ブルーノ・タウトへの旅』p226の『日本 タウトの日記』引用部分)

その旧日向別邸の地下室の真上、芝生を植えた庭からは太平洋がきれいに眺められる。その様子を写真に撮った。逆境の中にあって、仕事をバネに前向きな人生を常に歩んでいたタウトの人となりにあらためて感銘を受けざるを得ないというのが正直な感想だ。己を貫く人はいつの時代も美しい。


ブルーノ・タウトへの旅

ブルーノ・タウトへの旅