『アサッテの人』

昨日、「若手の小説を読んだけれど面白くなかった」と書いた。書いたエントリーの煮え切れなさに書いた本人が嫌気をさした。それはないだろう、その言い方は卑怯だろうと思い直し、やはり肯定的な、元気の出る文章にはならないけれど、そこまで書いたのなら続きはちゃんと書いておこうと思った。それで今日のエントリーである。


読んだのは文藝春秋に掲載された芥川賞受賞作、諏訪哲史『アサッテの人』。この作品は、失踪した厭人癖のある叔父をモデルにした小説を書こうとする「私」の手記という形式をとっている。「私」が書いた最終稿の冒頭、それに続く「私」のモノローグ、6年前に書いたとされる、叔父の奥さんの語りをまねた第一稿の断片、モノローグ、第一稿、叔父の日記、モノローグ、叔父の日記、モノローグという風に、肌合いを異にするテキストをパッチワークのように組み合わせることによって、小説は視点と流れる空気を微妙に取り替えながら進行する。


大きな事件はほとんど何も起こらない。その代わりに、叔父が「ポンパ!」「タポンテュー」など他人には理解できない単語をしばしば口にすることで奥さんを含む周囲の人々にどきりとさせていたことに徹底的にこだわり、残された日記や肉親ならではの記憶や家族史を頼りに叔父の内面に肉薄しようとする。その理解の記録がこの小説という体裁になっている。冒頭の展開は、気の利いたメタ小説が始まる気配があり、その方向への展開を期待したが、方法論の上での斬新さはあまりない。


叔父はエレベータ管理の仕事の合間に、管理用モニターに映し出されるある男の所作に共感を得る。この男というのは、背広姿の平均的な会社員と見える人物なのだが、エレベータのドアが閉まり、次にどこかの階で開くまでの短い時間の間に、逆立ちをしたり、コサックダンスを踊ったり、珍歩子をズボンから出したりといった、世間的には奇矯と見える振る舞いをする。その様子が叔父が見ている管理用スクリーンに映し出される。彼は残された日記の中で次のように書く。

おそらく彼の日常には、僕と同じようにありきたりな出来事、習慣、一般常識、といった諸々の凡庸が満ちあふれている。彼はのべつまくなしにその流れに従わされているのだろう。彼自身、社会それ自体に歯をむけることは望んでいない。しかし彼は、あわよくばそこから離反し、どこか無重力の場所に憩うことを、常に虎視眈々と狙っている。(中略)彼は瞬間的に、余人のうかがい得ない「アサッテ」を垣間見るのである。


社会との交渉を拒否した精神的逸脱のライフスタイルを叔父は「アサッテ男」と名付け肯定する。本編の中で叔父の思想が露骨に表現されている上記の引用部分をどう受けとめるか、引用部分とこの作品の中で克明に描写される叔父の日常的な人となり、生き方とのギャップをどう受けとめるかで、この作品への好悪の感情と評価がかなりの部分で決まってくるのではないかと思われる。


叔父が口にする「ポンパ!」という意味不明の叫び声は、こうした「アサッテ主義」が世間の重圧に耐えかねて発する軋みのようなものとして設定されていると僕は読んだが、しかし、その叔父がアサッテ主義の維持に耐えかねて疾走すると読めるこの著作には、どのような倫理が表明されているのか、あるいはどのような反倫理が表明されているのかが分からない。単なるナンセンス小説ではないとしたら、これは何なのだろう?


また、諏訪哲史さんは文章力はある人だが、叔父さんの事故死した奥さんの口調を真似した小説中の初稿に自分の文体が知らず知らずのうちに影響されているように感じられるだとか、逆に別の箇所では「女性的な筆致を飽くまで模倣しようとしながらも、書き進むうちに否応なく自分本来の書き癖に連れ戻されてゆく傾向を孕んでいる」なんて書くのはずるいぞと思う。地の文、「初稿」「日記」の書き分けができない言い訳に聞こえてしまうじゃん。実際そういう風に読めてしまう文章だし。


作者は社会との同期を断ち切ったところで見つける心の平安というテーゼを持ち出しながら、そこから彼個人の主張の側に突進するでもなく、例えば日本の社会が深層心理として持つ何かを炙り出そうという気概をちらつかせる訳でもない。単なる面白い話を書きました、不条理劇をつくってみましたというほどには面白くも怖くもない。叔父の個人的な体験、それを文章に表現する「私」の体験が、読者と共鳴する何かが僕には感じられなかった。ぜひ、この宙ぶらりんな気分は次作で解消させてもらいたいと思う。次、読みますから。


個人的な体験と言えば、本作品を読みながら、この人、いろいろな文章読んで勉強しているな、ここんとこ、まるで大江健三郎だななどと思ったとたんに意識がそっちの方向へちらりとずれた。息子が脳に障害を負うという個人的な事故の記憶を、かけがえのない個人が自らの決断を選び取る物語へと昇華させた大江健三郎『個人的な体験』、そんな若書きの、しかし若さの持つ強さが刃のように読者の意識を射す物語を、僕は常に芥川賞の読書に期待しているのだと。