中沢新一著『アースダイバー』を読む

ニューアカの旗手としてもてはやされた中沢新一を読んだのは、流行に一拍遅れて『チベットモーツァルト』を手にしたのが最初だが、よく分からなかったことしか記憶にない。その後、『雪片曲線論』だったような気がするが、シューマンの音楽をモチーフにした文章があって、すごくいいなと思ったことがある、という記憶だけが残っているのが僕の中沢体験のほとんどすべてだ。80年代後半、彼が世間でもっとももてはやされていた頃に、あるクローズドな会合で松岡正剛らとともに発言していたのを部屋の片隅で聴いたことがあり、見てくれも、発言も、聞きしにまさる格好良さだなあと思ったことも覚えているが、その記憶もとどのつまりはそこまでで、心の中で何かを受け取るには僕自身にニューアカを理解するための教養が足りなすぎた。その後、オウム事件をめぐる中沢バッシングが起こり、いつの間にか世間の注目はこの人を置き去りにしてしまった。『アースダイバー』は、数年前に梅原猛吉本隆明と一緒に出した対談本以来、久しぶりに手に取った中沢本である。


話はわき道にそれるが、自分にとってのブログのことを考えると、やはりこれは日記の延長線上にあるメディアであることをかなり意識する。本を読みました。その記録を日記に記しておきます。という心の動きの延長線上で、せっかくならばブログにしてしまえと考える。もちろん、ブログがそういうものだと決めつけるのは間違いで、これはあくまで自分にとってのブログの位置づけ以上のものではないのだが、とりあえず、このブログはそういうものになっている。では、日記かと言えば、日記の無防備さはさすがにない。しかし、紙の媒体に書くことに比べれば、テーマはなんでもありのお手軽さは日記レベルだし、思いつきを文字にして読み直さない、思想に触れるようなところまで話題をつきつめることをしないのも、ブログを僕自身が軽いおしゃべりの場所だと考えているからなのだと思う。これはよろしくないのではないか、とときどき思う。ときどき思いはするが、しかし、まぁいいじゃないか、ブログはそんなもので、ともう一人の自分はノンシャランなものである。


中沢新一の『アースダイバー』の感想文であるはずの文章に、なぜブログの話が混じってきたのかと言えば、『アースダイバー』の面白さ・いい加減さはなんだかブログ的だなあと思ったからだ。すでに発行後2年以上が経った本であり、おそらくお読みになった方も少なくないはずなので、今さら書評めいた感想を書くのも、またそれ以上に内容を要約するのも気が引けるが、ご存じない方のためにやはり少しだけでも触れないわけにもいかない。


『アースダイバー』は中沢の東京論である。東京には縄文時代の記憶がいまだに生きているという最初に聞いたときには「はっ?」と耳を疑うようなトンデモおもしろな仮説を振りかざし、どこまで読者をしらけさせずに付き合わせるかを競ってみる。そんな内容の本だ。


本書が紹介するところによれば、縄文時代の日本は今よりもずいぶん海面が高く、東京はフィヨルドのような入り組んだ海岸線が奥まで続いていた。その時代の陸地が後世では洪積層という堅い地盤として認められ、海が入り込んでいたところは砂地の多い沖積層という地層に覆われることになった。地質学の専門家がこの事実を基にコンピュータで解析し、縄文時代の地図を作っているというのが話の発端。中沢は、この古代の地図で岬だったり、水のほとりだったりしたところに遺跡や神社、墓など現在でもそのまま残っている聖域が存在しているのを発見する。つまり、縄文時代の地理的条件が聖域のありかを定め、時代は変われど、それらの聖域、つまりエロスとタナトスの境界領域の存在は、現在に至る東京の地勢に確固たる影響を及ぼしている。


中沢の眼がとらえる東京のあらゆる土地は、雄弁に自己の存在理由を語り出す。それらの場所には縄文の時代に遡って刻印された、歓楽街や官庁街に発展するのを当然とするような象徴的な意味が隠されており、言葉にならない民衆の無意識が、世界経済の一大拠点である東京を東京たらしめている。中沢によれば縄文時代の集落は住居が輪のように丸くつらなっており、その中心は死者を弔う場所として世俗的な活動の外にあったという。現在の東京は、何故かこうした縄文時代の集落と同じように、中心に皇居という無を作り出すに至った。エトセトラ・エトセトラ。


「乾いた土地」「湿った土地」などの分かりやすく卓抜な比喩、「乾いた土地」と「湿った土地」の“対立”といった自ら持ち出した概念設定があたかも自律的に運動を行うかのような幻想的な言葉の展開、夢とロジック、史実と想像が妖しく混じり合った中沢の『アースダイバー』は、学者の論文を想像していた読者にはトンデモ本と映るような類のテキストなのだが、しかしである。こうした感想文に始まり、専門家による専門分野への言及、社説風文章、食べ歩きの記録、海外メディアの記事紹介、創作、創作の記録、評論などさまざまな分野のブログを巡回した後に去来する猥雑な豊穣さの感覚と『アースダイバー』のいかがわしさにはどこか相通じるところがある。こんな風に言うこと自体、すでに中沢の術中にはまっている感がなきにしもあらずだが、僕自身ブログを書き続け、日本語で書かれたさまざまなブログを読み続けることの意味には、まだ自分自身にすら理解できていない何かがあって、その何かには必ずしも大学の授業のような、目的に即して練られた効率的なカリキュラムを価値とするような価値観とは異なる、大衆の無意識が求める別種の効用の存在をかすかなりとも感じているということではないのか。


ところで中沢は、資本主義経済、一神教、それらが押し進めるグローバリズムに対して異議を唱える一つの実践として『アースダイバー』を著し、都心の効率を阻害する「空虚な中心」としての皇居の存在を、資本主義を成立させる一神教の思想と対立する日本固有の知恵の象徴と見る。日本のブログはアメリカのブログとは異なる発展の仕方をしていると思うが、英語と切り離された日本語の世界が、純粋日本文化の上で培養されているが故の新しい知恵を内包するに至るのか。そんな問いかけもあり得るのだなとこの本を読みながら考えた次第。


アースダイバー

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