神秘の日本人

先日書いたとおり、『神秘のモーツァルト』という本を読んでいる。フランスの小説家、フィリップ・ソレルスの著書。モーツァルトの天才を巡るあまたの著作を飾る最新の一冊だが、この本の本来のテーマとはまったく関係のない感想を一つ。同書の7ページ目にこんな文章がある。

どうやら日本人は、「初夜」なんて名のブラジャーまでつくったらしい。ホックをはずすと、モーツァルトの短い音楽が鳴る。結婚するかしないかのうちに、日本人はもう、じつに見返りのある未来の天才を宿しているのだ。ゆりかどについたオルゴールなど、もやはたいしたことではない。ブレスレット、ブローチ、ダイヤの指輪、ダイヤのネックレス、あらゆる種類の宝石、しなやかで、なめらかで、流れるようで、きらきらしているものはすべて、「モーツァルト」として扱われうるのだ。どんな名人芸だってそう。ひとは金融の、シークレット・サービスの、コンピュータの、ウィンドサーフィンの、カラシニコフの、スキューバダイビングの、曲乗り飛行の、棒高跳びの、テニスの、ボクシングの、プロレスのモーツァルトになれる。モーツァルトは具現化された才能であり、理想的な贈り物であり、労せずして得られる無償の何かである。
(『神秘のモーツァルト』P15)


引用した箇所は、商品化される記号としてのモーツァルトをからかった導入部の一文だ。モーツァルトが現代の消費社会において綿菓子のような甘ったるい理想的才能の象徴だとすると、日本だの、日本人だのという文字は、得てして西洋人が考えない突飛なアイデアを商売に仕立て上げる変わり者を象徴している。と、そういうステレオタイプの反応を前提に上記の文章は書かれている。モーツァルト付きのブラジャーが本当の話かどうかはしらないが、「突飛な商品化をするのは日本人」という話はフランス人のソレルスにとって誰にでも通じるであろう固定観念に則っているのだ。しかし、最近はどうなのだろう? 突飛な話はアメリカの西海岸辺りからしか出てこない? そんな気がする。


くだらない笑い話のネタが生まれる裏で血の汗が流されてきたのだろうな。だんだん、何がよくて、何がそうではないのか、よく分からなくなってきた。