『大竹伸朗 全景 1955-2006』


大竹伸朗さんの画業を展観する『大竹伸朗 全景 1955-2006』(東京都現代美術館)を鑑賞した。11月の始めのことだから、もうひと月も前になるのだけれど、今日はその印象をご紹介したい。


会場の東京都現代美術館は新しくて、展示空間にも余裕があり、見やすくてとてもよい美術館だ。だが、都心から少し離れた江東区、それに駅から遠くて便利とは言い難い場所にある。そういうところに地場活性化の意味合いを込めて建てたのだろうから文句を言っても詮方ないが、大江戸線清澄白河駅東西線木場駅という二つの駅を対頂角とする長方形を思い描いていただき、両駅から東へ1キロ弱、北へと1キロ少々、隣の角に向かって歩くとそこが目的地の美術館である。ふらりと思い立ったときに立ち寄って絵を見たいたい者にとっては二の足を踏むロケーションではあるのだ。だから、これでやっと三度目の訪問。


■東京都現代美術館のアクセスマップのページ


清澄白河駅から歩いて美術館が見えたと思ったら、屋上に「宇和島駅」の真っ赤な大きいサインが見えて一瞬「??」となり、次の瞬間「もしかして」と閃いた。やっぱりそれは大竹さんの作品なのだった。展覧会のパンフレットによれば、宇和島駅の古い庁舎が壊されるときにもらい受けたものだという。「それが作品か!?」と考え込んでしまう僕は、明らかに現代アートの人ではないわけで、この最初の時点で先が思いやられる展開となった。雑誌など媒体以外で大竹伸朗のホンモノを観るのは初めてなのだった。


デュシャンの『泉』にせよ、ピカソの『牛』にせよ、モノに仮託して美を表現する芸術の方法を最初から否定するつもりはない。便器が想像力をかき立てるのであれば、「宇和島駅」がそうでない理由も見あたらない。しかし、便器が泉になり、自転車の部品が牛になるのとは違い、「宇和島駅」のサインを「宇和島駅のサイン」として作品にする大竹さんの感性はさすがに時代の先端を行っていると言ってよいもので、先端者は理解されないというテーゼはここでも生きていると言わねばならない。僕の感性がそこに追いつくには、もう少し修行がいる。そう思いながら見て回る作品の中に、パチンコ屋の店先に捨ててあった巨大な張りぼての「自由の女神」をもらってかえって真っ白に塗り直したという『女神の自由』が堂々、悠然と7メートルだか8メートルだかの高さで立っている。美術館の中で見ると、その太り気味の女神さんは相当の威圧感で、そびえ立つという表現もあながち誇張ではない。


こういうことをやるアーチストたちの本心がどこにあるのかを僕はとても知りたいと思った。彼らは批評家的な言葉の世界の効果、いわば文学的な効果を狙ってこうした行いを敢行しているのか、それとも本心からこれらのモノそのものにサムシングを感じているのか、そこを知りたいと思った。どちらにせよ、ある意味それは一流の技だが、前者であれば、それはデュシャンエピゴーネンであるという悪口をかけられても仕方がないし、文学をここでしてもらうのはどうだろうと僕は思う。後者であれば、それは創作を行う者の中に凡人には追いつけない、説明不能の何かがあることの証明であるように思われる。


答えはそれから二週間ほどしてNHK教育テレビで放映された『新日曜美術館』の大竹伸朗展特集で得ることになった。番組は脳学者の茂木健一郎さんが東京都現代美術館の展覧会場で大竹さんにインタビューするシーンと、その合間に流れる大竹さんの姿を制作現場などに追う映像とで構成されていた。その中に『女神の自由』制作現場の様子が流れたのだ。小さな造船所で「リメーク=創造」の過程にある『女神の自由』に携わる大竹さんの表情は実に嬉しそうだった。女神の回りに組まれた足場の上で大竹さんは溢れ出るような笑みを口元にたたえて女神への思いを語っていた。そうか、そういうことかと合点がいった。さらに、若い頃に働いた北海道の牧場の近くの河原で石を積み始め、あっという間に「アート」にしてしまう大竹さん。そうした創作現場の映像は、もしかしたら美術館に展示されている作品よりも、より大竹さんのメッセージを表しているように思われた。


大竹伸朗の作品は僕の好みとはかけ離れている。全然いいとは思わない。にもかかわらず、作品自体への好き嫌いとはまるで異なる次元で、圧倒的な印象をこの展覧会は観る者に与える。それは、膨大な作品の量と個々の作品の規模に由来する。4つのフロアに広がっている企画展示室のすべてを使って開催される展覧会には、大竹さんが年端もいかない小学生低学年の頃に描いた絵(それは漫画のコピーだったりする)から始まり、画学生時代の作品を経てプロとして名声を獲得した後の、おびただしい数の作品の群れが展示され、その全体がこの人の表現への意欲の凄まじさを表現している。会場を歩くと、これでもかというほどびっしりと並べられた作品が切れ目なしに続くさまに次第に驚嘆の念を覚えるようになる。空恐ろしさと言ってもよい。


大竹さんの作品は単に大きいばかりでなく、部分・部分に手をかけて作られている上での大きさである。こういう仮定は少々滑稽だが、これが僕だったら一作が完成したとたんに満足して手を休めてしまうようなものが、これでもか、これでもかと続く。それだけの物量を生み出す芸術家の熱意を想像し圧倒される。それにしても、あの大きさへの指向はどこから来るのだろうか。あれだけ次から次へと作品を作り続けるエネルギーはどこにあるのだろうか。


会場の途中で別のことが心配になり始めた。この人は、これだけの数の作品をいったいどこにしまっているのか。展示されているのは美術館やコレクターに引き取られたものばかりではないはずだ。データを保存することへの執念という点では、このブログで何度も言及している「記憶する住宅」の美崎薫さんの例が際立っているが、大竹さんも同じような性癖の人なのではないかと想像できる。しかし、大竹さんの作品はビットではない。さらにその作品には女神の例に洩れず巨大なものが多い。これらの保存に要するエネルギーはデジタルの時代の中、それだけで十分に時代錯誤的であり、驚嘆すべきことのように思われる。


さらに驚くのはその表現の変容について。この人のスタイルには一貫性がない。信じられないほどに一つの様式に拘泥しない人だ。カメレオンのように変化するスタイルの作品が並んだ会場は、あらかじめ知識を植え付けられていなければ、数人の作者によるグループ展が開催されていると思うだろう。僕がかつて印刷物でちらと見ただけの大竹作品は、つまりそれだけでは大竹作品ではなかったということになる。


この点についてはNHKの『新日曜美術館』で本人がはっきりと言っていた。同じことをやるのってつまらないじゃないですか、と。茂木さん相手にノンシャランな語りで、自らの姿勢を言葉にする大竹さんの姿は芸術家の芸術家足る所以を絵に描いているように見えた。たぶん、彼ばかりでなく、ホンモノのアーチストは常に心のどこかでそう思っているはずだ。一つところにとどまらない。自らが創造した成果でさえも乗り越えて次を目指そうとする意志。小市民の僕は、そこで生まれてくるものが常に以前のものよりもよいとは限らないはずなのに、と無用の心配をしてしまう。そんな心配を軽く笑い飛ばすように前進するアーチストの姿を「全景」として体現したこの展覧会は、大竹伸朗大竹伸朗足る所以、芸術家の芸術家足る所以を理解するためのもっとも理想的な装置となっている。観る者にとって「!」と「?」が常に去来するエキサイティングな場所だ。作品は嫌いだけど。


■『大竹伸朗 全景 1995-2006』公式サイト
(開催は12月24日(日)までです)