僥倖

週末、ある写真家の、未発表の、そしてまだ未完成の作品を作者の好意で見せてもらうことができた。そこに表現されてあるフォルムに心が震えた。写っている光景は誰もが日常的に目にしている東京の一日なのだった。写真家の目は、我々が網膜に映す平凡なフォルムに強烈なメッセージを焼き付けていた。被写体に仮託された作者の主張に、言葉にならぬ思いを言葉ではないものによって表現する作者の力量に、作品を目にした瞬間にびりびりと感電したように感じられた。傑作だと思った。これは掛け値なしに傑作だと思った。

そう思えたのは、作者のメッセージのベクトルが、作品を見る僕の主義主張のベクトルと綺麗に合致したからだと思う。被写体→作者→鑑賞者が一直線の上に並んで鑑賞者の僕はそのベクトルに貫かれた。串刺しにされた気分だった。芸術の試みは表現する者とそれを受けとる者との共感を確かめ合う行為だ。そのことを改めて実感した。

大竹伸朗展で感じた、作者の熱意を必ずしも受け止めきれない隔靴掻痒の思いとはまるで正反対の体験。たった一枚の写真が作者と鑑賞者の一体感を創造する不思議。こうした体験を得るたびに、新たに展覧会や、音楽会や、書物、そしてブログを通じた逍遙への想いは増幅される。探訪に意味はあるのだと信じることが可能になる。短い人生、朽ち果てるまで、そんな機会を一度でも多く持つことができればと祈りに似た感想が去来する。