いじめによる自殺の問題を扱ったブログをいくつか見るうちに明治大学助教授の内藤朝雄さんのブログにぶつかった。いじめの問題を取り上げてきた研究者の方。初めてその主張に接して、ブログで読むことができる範囲に関しては、全面的な支持を表明したいと思った。
■「いじめ学」内藤朝雄氏に聞く、問題の深層と対策(原宿新聞)
■「逃亡」という概念の存在しない場所で逃げることはできない『24-Hour Survival』(2006年11月10日)
を発見したのは、つい昨日のこと。評論家的・傍観者的な地点からは決して発せられない重い言葉である。
さらにリンクを辿って、
■逃げこめる世界がなければ永遠に逃げれない。『Say::So?』(2006年11月11日)
に行き当たり、これには虚をつかれた。逃げ場所として読書は使えるよというアドバイスなのだが、その前日のエントリーを読んでこの方の発言がどのようなご自身の体験の上になされているのかを知る。
■自殺のニュースを聞くたびに思う。『Say::So?』(2006年11月10日)
Say_Soさんは関西から関東に引っ越して言葉が違うことでいじめられたとお書きになっている。僕も小学校2年生の時に福岡から横浜に引っ越したときに言葉がおかしいと転校初日に笑われた経験がある。笑った子たちは何ら悪意はなかったはずだ。幸運なことにそれがいじめにつながることもなかった。それでも、しゃべる言葉を笑われる、自然な生き方そのものが嘲笑の対象となることは、巨大な天変地異に遭遇するに匹敵する事態だった。それが何日間だったのか、一週間だったのか、二週間だったのか、もう記憶から抜け落ちているが、人前で話すことができなくなった。それはそれは長い時間であり、最初に仲良くなった二人の友達と普通にふざけ合うことができたときには心底救われたと感じた。
この体験は自分以外の多勢と自分一人とが対峙する感覚を深いところに受け付けることになった。仲良し共同体は恐ろしいということを子供ながらに(いや、子供だからこそか)知った。
先日、三人の子供達に今まで自分のいたクラスでいじめってあったかと訊いたら「あたりまえじゃん」という答えが返ってきた。
さらに、小学2年生から6年生までニューヨークの現地校で苦労した大学一年生の長男に「日本とアメリカではどっちがいじめがひどいと感じる?」と尋ねたら、少し考えた彼からは「アメリカには差別はあるけど、いじめってあるのかなあ?」という答えが返ってきた。「アメリカの場合はチャイニーズや黒人や日本人の子が白人の子にいじめられるというのはあるじゃん。でも、それは人種差別でしょう。白人の子同士でいじめってあるのかな?」
笑われ傷ついた子供の僕にとって、「あいつの言葉がおかしい」と笑った者全員が加害者である。じゃ、先生や大人が仲介をしてそれら全員に頭を下げさせ、「仲良しになりましょう」とし向けることが解決手段となるかと言えば、それは違う。これは明らかに社会システムのレベルで解決を迫るべき問題だ。仲間は常に加害者になりえ、状況が変われば自分は常に加害者になり得る。あらゆる組織はスケープゴートを求める危険性を孕んでいる。“違う”者はいじめられる。加害者と被害者の関係を固定化するクラスの解体という内藤朝雄さんの主張には全面的に賛成したい。