ベルリン・天使の詩


20代の半ばに転職をしたときに一週間の休みができた。未だ独身で、お金は少ししかなかったが義務も責任も同じように少ししかない20年前は何とも身軽だった。西ベルリンに行った。友人の所に転がり込んで、美術館に遊んだり、音楽を聴いたり、昔の操車場跡の、感覚を刺激する廃墟をうろついたりと数日の休日を過ごした。今思うと夢のような時間だ。


ある日、友人と親しいドイツ人のカップルと一緒に郊外にサイクリングに行った。西ベルリンは森に囲まれた街で、ちゃんと大都市の退廃を抱え込みながらも、釣り人が糸を垂れる広大な湖があり、深い森がある。その合間を、いったいどこを走っているのかも分からないままに、土地の人たちの後をついて猛スピードで自転車を漕いでいると、清廉な森の中に続く道が忽然と現れる「壁」に行く手をふさがれる瞬間に出会う。森は、ある時は壁の向こう側にも広がり、ある時はそこで突如としてとぎれて、壁にぴったりとよりそうように「あちら側」のアパートメントが静かに佇む光景が現れたりする。その窓からは老人が彫像のようにじっとこちらを眺めていたりする。壁はどうやら複雑な蛇行をしているらしく、それは突如として出現する。土地の人たちは、おやおやぶつかっちゃったよといった感じで、自然な方向転換をするだけなのだが、日本から来た僕にとってはそうはいかない。森や山はその向こうに魔物が住むあちらの世界への入り口であるというイメージを無意識に持っているから、森の奥が壁でふさがれているという想像の埒外にある光景に出会うと、心はうまく状況を理解できずに夢を見ているような気分に誘われる。その後、この時の思いを表そうとすると、「世界の終わり」という言葉が自然と浮かび上がるようになった。悪夢のような壁は「世界の終わり」の始まりを示しているように見えた。

当時のベルリンは冷戦を体感できる希な場所の一つだった。サイクリングから数年遡る1982年、東ベルリンに一日だけ滞在を許可する即席ビザをチェック・ポイント・チャーリーの検問所で入手し、僕は「あちら側」を見物に行った。僕を含めた若い観光客がたくさんいて、手続きをしていた兵隊さんは無造作に国の名前で観光客を呼び、ビザを手渡した。「ヤーパン!」と呼ばれて僕もビザを受け取った。本物の銃を捧げ持つ大きな体躯の兵隊の中で脂汗が出るのではないかと思うほど緊張した。 兵隊は誰もが無表情で、そこに現れているものが緊張なのか、倦怠なのか、僕にはまったく分からなかったが、検問所脇の博物館でこの場所を越えようと様々な試みが企てられ、数多くの人々が殺されたことを知った後に彼らの持つ銃はひたすら恐ろしかった。


何のあてどなくあちら側の市外を歩き回り、あちらの電車に数駅分乗ったりして遊んだ。ソフトクリームを買ったら、西側ではおめにかかれない溶けかけで、粉っぽい不思議な味がした。通りを目的もなく歩いていると、若い背の高い男がにじりよってきて、「××ドルで××マルクに換金するよ。どうだ」とささやいてくる。半日しかいない自分にとって東のマルクなんて欲しくもない。「入らない」と相手にせずに歩いていたら、5分ほどもした頃に今度は背の低い革ジャンパーの中年男が声をかけてきて「さっき、あんたに話しかけていたやつは何を言っていたの?」と笑わない目で尋ねてくる。僕は恐くなって自分はドイツ語が分からないとしらを切り、とりあわずに足早に逃げる。ダフ屋の取り締まり程度のものだっとしても、まかり間違って自分まで逮捕となった日には笑って済ますわけにはいかない。


時代は下って90年代後半、西と東という枕がはずれたベルリンを二度訪ね、以前ここで書いたような「講義もどき」ありの珍道中を体験したりしたが、その時にはすでに壁は崩れていたのにもかかわらず、その不在を感覚的に理解できなくて困った。実は今もなお僕の頭の中ではベルリンは二つに割れたままの姿で存在している。あの怖さ、不気味さの感覚はそれほどに強烈で、その源泉がこの世から消えていることに僕の感覚は心底納得をしていない。90年代前半、初めて『ベルリン・天使の詩』を観て、溜息をついた。ベルリンを皮膚感覚で知っている人の脚本であり、映像だと感じた。東に向けて開かれたきらびやかな西のショーウィンドウ、クラシック音楽界に君臨するベルリンフィルカラヤンの街、疲れ果てた外国人労働者とその家族たちの街、すなわち希望と虚栄と退廃の市だった。ブルーノ・ガンツの天使も、ピーター・フォーク自身によるピーター・フォークも、 僕には作り物に見えなかった。映画にほとんど思い入れがない僕にとっても、この映画は慈しみの対象になった。東西に割れたベルリンは天使が舞い降りる場所だった。


Als das Kind Kind war,
ging es mit hängenden Armen,
wollte, der Bach sei ein Fluß,
der Fluß sei ein Strom
und diese Pfütze das Meer.

(ヴィム・ベンダース『ベルリン・天使の詩』公式サイトより)


註)このエントリーは下記『三上のブログ』の三上さんのコメントに触発されて誕生しました。
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20061024/1161654004