バルビローリとジュリーニの毀誉褒貶


三上先生の『三上のブログ』で昨日のエントリーを取り上げて論評していただいた。有り難いことである。

http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20060811/1155286675


今日はさきほど見つけた新聞のCD評をネタにしようと思う。朝日新聞文化欄「クラシック試聴室」に神戸大学助教授の岡田暁生 さんによるジョン・バルビローリの録音評である。その最初の一文は次のフレーズで始まる。

存命中のバルビローリは、どういうわけか、日本では非常に評価の低い指揮者だった。
(「発掘された録音 真価示す」朝日新聞2006年8月11日夕刊)

今日のエントリーはクラシック音楽ファン以外の方にも読んでいただくつもりで書いているので少し説明を加えておくと、サー・ジョン・バルビローリは英国の指揮者で、マーラーシベリウスなど後期ロマン派に属するジャンルの演奏で一目を置かれる存在だ。カラヤンベームなどのように生前から日本でも引っ張りだこだった人物でなかったことは間違いない。1970年の大阪万博に来るはずだったのに急逝して来日は実現しなかった。ところが死後、彼の名声は衰えることはなく、今では彼がベルリンフィルを振って録音したマーラー交響曲第9番は、この曲の録音を代表するものと言われており、今やクラシックファンでバルビローリの名前を知らない者はどこにもいない。


というようなことを頭に入れていただいたうえで話を進めるのだが、岡田さんの文章を目にしたとたんに違和感100%の世界に突入した。岡田さんの文章は
「存命中のバルビローリは、日本では非常に評価の低い指揮者だった。」
でなければならなかったはずだ。「どういうわけか」がどういうわけで活用されているかというと、このパラグラフの後で、彼がものすごく実力の高い指揮者だったことを示す録音の紹介を行うからである。そこにスムーズにつなげる修辞上のおしゃれな工夫というわけだ。


しかし、現実は「どういうわけ」も糞もない。日本のクラシックおたく、あるいは洋楽の専門家の知識はバルビローリが存命中だった1970年以前にはおそらくそんな程度だったのだ。そうであっておかしい理由はどこにもないのだから。


僕が覚えている事実をご紹介すると、同じように「どういうわけか」日本ではまったく評価されていなかった指揮者の中に先頃亡くなったカルロ・マリア・ジュリーニという人がいる。この人はその後、クラシック録音商売の総本山であるドイツ・グラモフォンと契約し、どしどしと録音を発売しだして日本でも「どういうわけか」クラシックおたくなら誰もが知っている存在となったが、僕が彼の名前を初めて聴いた1970年代の半ばには、もう結構な年格好なのに日本では無名に近い指揮者だった。彼がウィーン交響楽団というオーケストラ(この楽団はそんなに悪い団体では決してないのだが、世界最高と謳われるウィーン・フィルハーモニー交響楽団の陰に隠れる存在であることを運命づけられているために、あたかも二軍、サテライトチームのように蔑まれている)を率いて日本公演を行った際、クラシック専門誌の「音楽の友」は某評論家の木で鼻をくくったような演奏会評を掲載した。誰も注目していなかった。


その直後、このジュリーニが欧州で無茶苦茶に評価が高い指揮者だと知ったクラシック音楽メディアの豹変ぶりは、あまりに茶番。あっという間にどの評論家もが彼を昔から評価していたような顔をして話をし始めた。ジュリーニの場合、僕はその受容の過程を現在進行形で見聞し呆れ果てたわけだが、もちろんこんな話、クラシック好きのごく少数の友人以外、誰にも話をしたことない。


多くの人々が無自覚であっただろうが、おそらく、この頃の日本の国と外国をつなぐ情報の垣根はそんな風であり、あらゆる分野で同じようなことが起こっていたのだろうと思う。つまり、ある程度の情報は入っており、それどころかかなり潤沢な情報を入手している部分があるかと思うと、そのすぐ隣の分野の情報はものすごく手薄で、その粗密の実態を自覚することが出来ていない。そんな情報地図を当たり前のものとして僕らの世界観は形成されていたのだ。


こういう状況は情報を消費する立場としてはともて不便で、不自由だけれど、単純な知識が一つ増えることに対する大きな喜びもあった。海の向こうの情報はすべてにジョニー・ウォーカーのように大きなプレミアが付いていた。そして、それを逆手にとってビジネスを成立させるような経済的な実利の余地さえもあった。今や、その気になれば、どこの劇場でどんな若手指揮者が登用されたかもたちどころに把握し、ニューヨークタイムズフランクフルター・アルゲマイネがそれをどのように評価したかもほぼリアルタイムで知ることが出来る。


しかし、今もこの頃もおそらくあまり変わっていないのではないかと思うのは、やはり海外からの情報の消費には情報のハブとなる識者の存在がかなりの程度で重要性を持っていると思われる点だ。「識者」の影は薄くなっただろうか。異なる位相に移動して、同じように必要とされているように思うのだが、何が変わり、何が変わっていないのだろうか。


シベリウス:交響曲第2&第7番

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