「多趣味のすすめ」でしょう

現在まわりに溢れている「趣味」は、必ずその人が属する共同体の内部にあり、洗練されていて、極めて完全なものだ。考え方や生き方をリアルに考え直し、ときには変えてしまうというようなものではない。だから趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もない。真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している。
つまり、それらはわたしたちの「仕事」の中にしかない。

村上龍著『無趣味のすすめ』の全五段新聞広告に掲載された「本文『無趣味のすすめ』より」という文章である。

僕は今朝の朝日新聞の広告を見るまでこの本については全く知らなかったが、広告自身によれば、「大反響、9万部突破!」なのだそうである。さすが村上龍、さすが幻冬舎である。でも、感心したのはそのことではなくて、この文章がかっちょいい断定口調で述べていることと、僕が最近考えていることとがまるっきり逆さまだったからだ。

この職業選択や就業がままならない、不況真っ只中のこの時期に、なにゆえ『無趣味のすすめ』なのか、この文章と広告を見ただけではよく分からない。ネットでよくいう“ツリ”なのかもしれない。そうである可能性は多分にあるとしても、この文章を読んで思わず目が点になるほどの違和感は容易に消えそうにない。そこで、このエントリーである。

この文章の違和感は、「趣味」と「仕事」があたかも対立する何かであるかのように語られていることにある。それは一般的にはそうだろう。遊び、しからずんば仕事。あるいはその逆。でも、実際にはそうじゃないだろうというのが、最近僕が強く感じることだ。

その実感がどこから来るか。答えはとても簡単で、僕が尊敬する先輩、敬愛する友人の多くは、仕事ができて、同時にすばらしい趣味を持っているからだ。彼らがエネルギーを注ぐ対象は仕事であったり、遊びであったり、さまざまだが、どちらかである人は少ない。たまたまそのときの仕事に恵まれなかったり、反対に忙しくて趣味に手が回らない人はいる。でも、彼らを見る限り、趣味と仕事とが、まるで異なる次元に存在している異なる何かであると信じるに足る証拠はないのである。それどころか、仕事ができる人の趣味は、いわゆる“玄人はだし”であることが少なくなく、彼がそちらを仕事にしていれば、その世界で相当の結果を残したのではないかと容易に想像できてしまうのである。

「甲しからずんば乙」は、そもそも日本社会が昔から温存する悪しき行儀作法ではないか。もちろん、我々は日常的に「あれか、これか」と考えることを余儀なくされる。しかし、それは多くの場合、そこから「あれともこれとも違う結論」を見つけるための、考える方法としての「あれか、これか」であって、本当の答えは、様々な次元の「あれか、これか」の間にある場合がほとんどだ。権力者が「あれか、これか!」と問いを突きつけてきたときには、「本当の答えはそのどちらでもないんじゃないか」と気をつけるべきだろう。

「無趣味のすすめ」なんて、とんでもない。