ブルックナーの風景(5): ピアリスト教会

歴史に残る音楽家としては異例の遅咲きだったブルックナーは、リンツ大聖堂のオルガニストに就任したのが32歳の年だったのですが、その実上昇志向のあった彼は虎視眈々とより大きな都市でしかるべき地位に就きたいと願っていたようです。

ウィーン音楽院(現在のウィーン国立音楽大学)に教師の職を得ようとした彼にその機会が与えられたのは1861年11月、37歳の時。楽友協会で筆記試験が行われた後、オルガンの即興による作曲の試験が行われることになりました。その会場となった教会がピアリスト教会でした。音楽院院長で、楽友協会音楽監督を務めたヨーゼフ・ヘルメスベルガー、ウィーン宮廷楽長のフェリックス・オットー・デソフ、楽友協会でウィーン男声合唱団を結成、この後ウィーン宮廷楽長に就任するヨーハン・ベルベック、ウィーン音楽院教授で、ブルックナーの対位法の先生として有名なジーモン・ゼヒターなど錚々たる面々が立ち会い実技試験は行われました。

アルサー教会を訪れた後、すでに暮れかかるなか、目と鼻の先のピアリスト教会に足を向けました。





ウィーンの街は東京ほどではないにせよ、ところどころで思わぬ起伏があり、ピアリスト教会へはゆるい上り坂を少し登ります。アルサー教会は大きな通り沿いにありましたが、ピアリスト教会は狭い路地の奥に出現しました。





建物は17世紀の終わりから18世紀の初めの建設だそうで、アルサー教会とほぼ同時期になります。壁にはブルックナーの試験にまつわる有名な言葉が掲げられていました。いわく、

アントン・ブルックナーが、1861年11月21日、本教会のオルガンを用いて作曲試験の実技を受けた。後に宮廷楽長に就任するヨーハン・ベルベックは、この時の体験を次の記憶に値する言葉で表現した。
「彼が我々を試験するべきだった」









この時には入口が閉まっており中に入れませんでしたので、帰国日の晴れ渡った朝、教会を再訪しました。たまたま最後の2日間泊まったホテルが歩いて5分の場所だったのです。





試験に使われたオルガンの音は聴けませんでしたが、とりあえず目にすることは出来ました。非常に品の良い美しさを湛えた教会でした。