地震の日の記録

地震の日は震源から遠く離れた東京のオフィスにいた身であったにもかかわらず、東京で出会う地震としてはこれまでほとんど記憶にない揺れを体験し心底驚きました。1時間後に予定されていた会合に出席するために山手線に乗って出かけようと、必要な書類をプリントアウトしたり、身の回りを整理していたときに揺れは始まりました。ズズズっと沈み込むような、上下に顕著な揺れがやってきたかと思うと大きな横揺れがそれに続き、いったん収束し始めたと思った後に、さらに大きな二度目の揺れが始まりました。ビル全体が文字通り「グラグラ」と音を立てていたと感じられたのは、よくは分かりませんが実際には社内のあらゆる什器や美品がたてる音だったのでしょうか。これはただごとではないという思いが恐怖の感情とともに襲ってき、パソコンのモニターが落ちないように押さえながら、棚や机に積んであった書籍がオフィスのあちこちに盛大にぶちまけられるのを、為す術もなく目だけが捉えていたのを思い出します。

長い数分間が終わったときに、今になってみるとたいへん滑稽なのですが、オフィスの窓から山手線の駅に止まって動かない電車を見ながら私が心配したのは「1時間後の会合に間に合わないかもしれない」ということでした。その時には、いまは世界中の人々に知らされている未曽有の災害が、数百キロメートル離れた場所で進行しているという想像力は、まったく働いていなかったことになります。もっとも何度も繰り返す余震の中、テレビで観た津波のライブ映像によって、常に迂闊な私も日本中、世界中の人々と等しい心の衝撃を受け、たちまちのうちに事態の重大さを認識させられることになったわけですが。

早々にJRが動かないことが明らかになりましたので、横浜の我が家まで35キロほどを歩くか、それとも帰宅を諦めて会社に泊まるか判断を迫られたのですが、この日は後者を選びました。数年前にはこのブログでも紹介したとおり戸塚の我が家から東京駅まで43キロを歩いたりしていますので、35キロならば歩けるのじゃないかとは思ったのですが、枝野官房長官が無理して徒歩帰宅しないよう記者会見で呼びかけていたことと、足元が通勤靴であること、行動が夜の時間帯であること、さらにもしかしたら先は長くなるかも知れないという可能性を考え、「泊まる」を選択したのでした。オフィスから見下ろした歩道には、都心方面から神奈川方面に向けて歩を進める人々の太い流れがかなり長い時間続いていました。

結局その夜、私は12時過ぎに会社を出て、いつもとは異なる私鉄経由で2時半過ぎに帰宅することができました。ツイッター東急線が比較的スムーズに動き始めた情報を得てのとっさの判断でした。じっと会社の椅子に座っているのが苦痛になり、行けるところまで行こうと動き始めたのです。しかし、電車は満員というにはほど遠い混みようで、ゆっくりではありますが障害らしい障害を何一つ体験することなく横浜駅へと到着、横浜市営地下鉄を乗り継いで我が家に帰り着くことができたのでした。東急線の中で、若い女性がやはり思いの外空いている車両に拍子抜けをしたのでしょう、「大晦日の臨時運転みたいだね」と、とても柔らかい声で同僚らしい人たちに声をかけていたのが印象に残っています。この時間帯に電車を動かしている人たちは辛いだろうな、たいへんだなと思ったものです。その途上、乗り換えをした横浜駅で、JRと地下鉄の駅をつなぐ商業ビル内の通路に、運転を取りやめたJRのために行き場を失ったとおぼしい、おびただしい数の人々が通路の左右、店じまいした店舗の入口を背にし、足を大きく投げ出して座り込んだり、寝込んだりしているのを見たときには、あまりの非現実的な眺めに一瞬我が目を疑ったのでした。

家に帰り着くと、横浜スタジアムで昼間に行われたオープン戦にアルバイトで参加し、やはり帰宅難民となって夜中に歩いて帰宅した次男が、スタジアムの照明灯が激しく左右に揺れていたこと、可動式の内野席が大きく揺れて観客席から多くの悲鳴が漏れていたこと、遠くに見える日本一の高層ビルであるランドマークタワーがゆさゆさと揺れているのを目にしたことを語ってくれました。都心に泊まった上の二人の子どもは、メールで示し合わせて途中の駅で翌朝9時に合流し、満員電車でモミクチャになりながら、昼過ぎに戻ってきました。

そんな半日でした。その日、都心で地震にあった勤め人の、典型的な帰宅の姿のひとつではないかと思います。