テレビで初めて『ポニョ』を観た

昨日テレビ初放映された『崖の上のポニョ』を観ました。例の主題歌、「ポーニョ ポーニョ ポニョ さかなの子♪」は耳にたこが何重にもできるほど聴かされていましたが、作品自体は観ていないどころかあらすじの知識さえほとんどなく、玄人筋からブログに至るまで世間の評価もまったく知らず、という無知ぶりでしたので、1年半前の劇場公開の際にご覧になった方とほぼ同じ新鮮さでテレビ画面に見入ったのでした。今頃『ポニョ』の話なんてすると、この種の情報感度が高いこの界隈の皆さんは「何を今さら」とお笑いになるか、あるいは鷹揚にほほえまれるか。私自身も「何を今さら」という気がしないではありませんが、ちょっと感想を書きたくなりました。

まったく先入観がないと書きましたが、以前NHKがこの映画の制作中の宮崎駿さんを長期間追うドキュメンタリー番組を放映したときに、呻吟し続ける監督を執拗にカメラに収めたその映像は覚えていました。そのときに刷り込まれた印象は、この映画が子供向けで、母と子といったテーマを内包しているというものでした。ところが、今回テレビで観て驚きました。あのおじさんは、こんなシュールなアニメをつくっていたのかと。

プロットの単純・単調さと、分かりやすい説明をすっとばして異次元の物語世界を描くそのやり方に、作品を観ている最中の私はあまり愉快な気分がしなかったのでした。それは「宮崎駿なら、こんな表現をしても“巨匠”だのと祭り上げられ、すべてが許されるんだ。若手がこれをつくっていたらボコボコに叩かれるんじゃないか」という類の感情です。ある部分には凡人、俗人の嫉妬が含まれているかもしれません。でも、そう言いたくなるほど、この映画には「ここではこれがルールだ。文句あっか」というムードが充満していました。

それと同時に、宮崎ファンは絶賛するのだろうなと思いつつも、海の中の表現はあまりに分かりやすいおとぎの国風で、実に陳腐だと思いました。ポニョのお父さんであるフジモトさんという不思議な人物も、手塚治虫の漫画に出てくる脇役か、アンクル・サムの出来そこないみたいで陳腐だと思いましたし、海の女神様といった立場であるらしきポニョのお母さんなんて、なんであんな天女様だか、ゴシック絵画のマリア様みたいな格好させんのよという感じ。猛烈な陳腐さを発散していました。陳腐と言えば、ポニョの本名は、映画の中でお父さんが口走るところによれば“ブリュンヒルデ”で、それってワーグナーじゃんと思うと、その直後に出てくる、この映画のアクションシーンとしてのクライマックス、登場人物の乗る車と荒波との追いかけっこの場面では、「ワルキューレの騎行」を直裁にもじった久石譲さんの音楽が鳴るのです。「お話の骨格としてはワーグナーの『指輪』をもじってるからね」と声高に言いふらしているかのよう。なんだか知りませんが、この映画の中には、このように、どこかで見たようなステレオタイプのイメージが満載です。どうしてなのかという点は、この映画を解く鍵だとは思うのですが、私にはまだよく分かりません。不思議な感じが続いているところです。

かように「そのイメージは陳腐でしょう」と言いたくなる、わかりやすくそれらしいイメージが満載なのに反して、このアニメの登場人物の動きは、観ている者の理解をはぐらかし続けるところがあります。というか、虚構の範囲がどのように設定されているのかが読めないように出来ており、この映画の世界の成り立ち方がよく見えないようになっているのです。

例えばですが、主人公の男の子、そうすけくんは人間の顔をした魚を発見しても驚きません。この子はそういう子として設定されているのか、と思うと、その後で、そうすけくんにポニョを見せられた老人ホームのおばあさんの一人は、実に平気な顔をして「いやだ、いやだ、人面魚だよ」と言います。周囲のおばあさんは「かわいい」と言い続けます。そこで、この映画の世界では人面魚が存在しているのだ、そういう世界として設定されているのだと私にはやっと分かります。

あるいは。そうすけくんのおかさんは、車の運転もできないような大荒れの嵐の日に、崖の上の一軒家に突如現れた女の子であるポニョを、あたかも隣家の顔なじみの子が遊びに来たかのように、ふつうに家に迎え入れます。あるいは。そうすけくんとポニョが、あらゆる世界が水没した洪水後の世界をおもちゃの船で漕ぎ出すのですが、そんな二人を船で通りすがる大人たちの船は、あたかも散歩の途中に二人の子供に挨拶しましたという程度の気楽さで接します。もっと単純な話をすれば、そうすけくんは助けたポニョをおもちゃのプラスチックのバケツに入れ、なみなみと水道水を満たすわけですが、そのなかで人間の子供に変身する前のポニョは楽しげに泳ぎ回ります。

こうしたシュールさ。日常感覚を摩耗させるような静かですがショッキングな表現には、かつて『フェリーニ8 1/2』を初めて観たときの驚きと似たものがありました。静かと言えば、洪水が明けた海の場面以降は、『千と千尋の神隠し』に出てくる水に浸かった線路を歩くシーンと二重写しになるところがあります。それまではどうしようもないと思ったのですが、この場面以降、私は映画に引きつけられていきました。何に引きつけられたのか。『千と千尋』のときにも同じように感じたのですが、彼の作品の持つ政治性、倫理性とは関係のない、シーンそれ自体の持つ美しさとしかいまの私には言えません。

陳腐さとシュールさの印象がむちゃくちゃに同居し、破天荒に感じられる映画の中で、生々しい人間がそこにいるように見える、したがってくっきりと記憶に残るのは、船乗りの仕事に惚けて帰宅しない旦那さんに憤る、そうすけくんのお母さんリサさんの姿です。宮崎駿の描く格好いい女性の系譜の新しい住人です。この場面はしっかりと世俗的な意味を持たせられているように見えるけれど、他は宮崎駿が何を言いたいのかを考え考えではないと解釈できないというところに、この映画の不思議さがあります。感覚で観ることを強いられる映画と言えるかもしれません。やはり、宮崎駿でなければ許されない表現ではないかと思います。