日本語の可能性と日本語の壁

昨日、日本語でブログを書いていることを表現するのに“内弁慶”というタイトルを選んだが、適切な表現ではなかったかもしれないと思った。自分の外側にある外界に内と外という区別があって、その“内”に向けて表現をしている、その“内”は日本語が通じる範囲、つまり日本であるという認識は、この場所で発言しているときの私に常にあるとは限らない。日本語で表現をしたいという意識があって、それが結果として“内と外”をつくっている。そう考えた方が適切なような気がする。
たんなる屁理屈のように聞こえるかもしれないが、何か引っかかっるものがあるので、自分にとっての備忘録も兼ねて、ここに記しておきたい。