シベリウスの第5交響曲

Sonnenfleckさんの文章を読んで、たった一度だけ訪れたヘルシンキを思い出した。2000年の秋のことだ。


■音楽と音響の間(『庭は夏の日ざかり』2009年6月28日)


同じく初めて訪れたお隣のスウェーデンは、ストックホルムにも、エーテボリにも、北ドイツ、たとえばハンブルクを彷彿とさせる雰囲気が随所にあり、人の顔立ちもゲルマンを思い起こさせる。思わず、いたずらで片言のドイツ語を何度かしゃべってみた。まるで通じなかったけれど、いかにも「Ja wohl!」と答えが返ってきそうなスウェーデンの人たち。ところが、飛行機でひとっ飛びし、降り立ったヘルシンキはまるで別世界で、人々の顔つきがまるで違う。皆、目つきがきつく、とがった顔をしていた。北の外れに来た気がした。この向こうには、すぐそこに自分にとってはさらに未知の旧ソ連がある。遠いところに来た気分はますます強くなった。

シベリウスは、ここであれらの曲を書いたのかと思うと、マーチがその原型だと吉田秀和さんがいうドイツ音楽や、ワインを片手に歌いだしたくなるようなイタリアの音楽と違っていて当たり前だなと納得できる。10月の下旬に、空が晴れ渡っているにも関わらず、東京なら真冬ですら吹かない寒風が間断なく吹きすさぶ。あの土地で書かれた音楽がドイツ音楽と同じである方が不思議である。そう思いながら、シベリウスの第5番の交響曲を聴くと、クラシック音楽の論理的・伝統的な構造によりながら、同時にそれを否定するかのような彼の音楽が近く、遠く響く。