天国があってくれたら

前回の話の続きになります。
というのも、日常活動のあれからこれへと移る合間に、自然と夏休みの学校で墜死した子のことを考えてしまうからです。こういうのは大江健三郎が一時期好んで使った「悲嘆(grief)」という感情に近いのだろうなと思ったりもします。息子が行っている学校では2学期が始まる9月の初旬に体育祭があります。年に一度の生徒たちにとって最大の行事で、受験で忙しいはずの3年生が先頭に立って学校中が盛り上がります。報道によれば、亡くなったお子さんは、友達数人と、この体育祭の応援について相談するために教室に集まっていたそうです。仲のよい友達と楽しく盛り上がるうちに気分がハイになり、廊下で走る速さを競う遊びを始める。それが事故という結末に結びついた。そういうことらしいのです。それにしても、かわいらしいと思いませんか。夏休みに友達と体育祭の応援について相談する。ふざけて廊下を全速力で駆ける。高校生の男の子のやることって、なんて無邪気でかわいらしいんだろうと思ってしまいます。大人になっていく時間の途上で自然に湧き起こる純粋無垢な子供っぽさの発露。そうした時間を経て人は次第に成熟と老化への道を歩んでいく。彼にあったはずの長い人生の中で、あと10年、20年もすれば記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっただろう、本人にとっては特筆すべくもない時間だったはずです。たぶん、事故の瞬間まで彼には夏休みの楽しい友人との時間があったはずです。それだけにことの顛末が悲惨でなりません。
事故を目にした息子は、とっさに自殺だと考えたらしいのですが、不謹慎ながら自殺ならばまだ救われると思いました。お子さんが4階のガラスを突き破って落下し、体がコンクリートの地面に到達して音を立てるまでに2秒ぐらいあったと息子は語りました。それが息子が言うように2秒だったとして、その2秒間がお子さんにはどんなにか恐怖であったことか、直後に野球部の父兄と言葉を交わしたという本人にとって、死に至るまでの時間がどんなにか苦痛であったか。そんなことを考えるとやりきれません。
ご家族が不憫である以上に、一緒に遊んでいた子供たちの今後を考えると気が滅入ります。粗暴でデリカシーなどかけらもない野球少年の息子ですら、昼間はまったく通常通りにふるまっているのに、夜一人で寝るのが恐いと言うのです。新聞記事では数行分の活字でしかない出来事ですが、波紋は周囲の人々の間に音もなく伝わり、広がっています。しばらくは私の周囲ではこの余波が静かに続いていくことになるのだろうと思います。
私は神も仏も、霊魂も幽霊も信じない罰当たりですが、こういうことがあると天国があってくれたらどんなにか素敵だろうと思います。天国の存在を信じたくもなります。