オリンピック雑感

オリンピックは見たり見なかったり。子供の頃のように狂喜乱舞したり、茫然自失に陥ったりしながら日本選手を応援することはなくなったが、なんだかうきうきする心の状態は変わらない。昨日、一昨日と、眠くて仕方なかったのに野球のキューバ戦、台湾戦は続けて見た。

アメリカにしばらくいたときにアトランタ五輪があり、日本から出張してきた人が「アメリカでは柔道の試合中継がない。ニュースでもまったく取り上げない」と怒っていたのを思い出す。そりゃあ、アメリカ人が柔道なんか見ないよとは思ったが、口にするとますます本気で怒り出しそうな気配なので言葉を返すのはやめたっけ。それは日本人がボートや自転車競技を見ないのと一緒、フェンシングを見ないのと一緒で、競技人口がほとんどなく、自国のスターがないとなればメディアが取り上げるべくもない。逆に野球で騒いでいる国なんて、世界的に見れば例外中の例外。ほとんど誰も注目していないに等しいわけだ。

裏返して言うと、オリンピックはよくできていて、国に応じて神話が生まれるような仕掛けになっている。国の数だけ異なる物語が語り継がれるようになっている。アテネが日本人にとっては北島の金、野口の金で記憶されるのと同時に、スペインでは○○選手の金で記憶され、アルゼンチンでは××選手の金で記憶される。壮大な開会式を世界中の人々の共通の背景として、異なる無数のオリンピックが存在する。あれだけ巨大な施設群を作り、世界中から無数のアスリートを集める意義は、だからちゃんとあるのである。あの規模は人間の欲望の大きさを表しているということになる。自分(自国)のために一所懸命になって、結果として全体がひとつにまとまる。しかし、最後にはそれぞれ別の夢を見ているというオリンピックの存在は面白い。