編集という概念と生業が向かう場所

先日書いた個人的な感想、つまり文字として書かれている内容がすべての興味に優先する活字中毒右派は書籍編集者としては必ずしも適格ではない、他方、コンテンツは言うまでもなく、活字や装丁やその他のデザイン的要素、ものとしての本にまつわる情報をすべてを含めて本を愛する活字中毒左派こそが編集者としての資格を有するという仮説をつらつらと少しだけ先へと進んでみる。

もしこれが真であるならば、それは編集者の真実の向こう側に本というものの本質を照らしているはずだ。当たり前の話かもしれないが、読者の何割かは「いいよ体裁なんて」と思っている。残りの読者は表紙のデザイン、組版の美しさ、造本の格調、かわいらしさといった要素を含めて本を手に取る。おそらく本の読者として最後まで残るのは後者なのだ。

では前者に分類される人たちはどこへ行くか。言うまでもなく電子的・工学的な拡張された本の場所へ。僕は同じコンテンツを読む装置としてどちらかを取れと言われれば、おそらく多くの人がそうするであろうように、迷うことなくウェブよりも本を選びたいと考えるが、それは、電子的な活字コンテンツが旧来の本と争うことができるほどの魅力や品質をまだ十分には獲得していないと感じるからに他ならない。

板東さん(id:keitabando)が紹介しているDIY出版のLuLu.comのような試みは、旧来の本から編集という旨味を取り除いてしまった後の出がらしだけで本をつくりましょうと言っているようなもので、本質的に間違っていると思う。出版に身を置く者として、ぜんぜん恐い感じがしないのである。電子化の強者である美崎薫さんあたりからすれば、こんな話はなにをいまさらという感じだとは思うが。

■もし、ScribdとLuLuとAmazonが…(『板東慶太のブログ』2008年7月17日)


むしろ、本の敵は、旧来の本を形成するあらゆる要素を、旧来の出版というビジネスモデルに押し込めたまま外に解き放つことを拒否している業界の惰性と曖昧だが根強い既得権意識ではないかという気がする。本に対して保守的な愛着を有してきた僕がこう言うのは自分自身に対して意外の感なしとしないではないが、梅田さん(id:umedamochio)の“ウェブブック”、三上さん(id:elmikamino)の“ライフブック”の試みに刺激を受け続けた末に考えるのは、編集を狭い伝統芸の世界から解き放つような試みに本の未来、つまり本という概念を更新する新しい世界はあるのだろうなということだ。その担い手がこれまでの本の編集者か、そうではないのか。

■ウェブブック「生きるための水が湧くような思考」本日刊行です。(『My Life Between Silicon Valley and Japan』2008年7月18日)
■スモールライフブック『ようこそ北へ2008』(未完)(『三上のブログ』2008年8月1日)