山椒魚

井伏鱒二の『山椒魚』は国語の授業で取り上げられるので、ほとんどの人が一度は読んだことがあるのではないかと思う。谷川の縁に穿たれた岩屋のなかでのんびりとしていたら、体が大きくなってそこから出られなくなってしまった山椒魚
「あぁ、寒いほど独りぼっちだ!」
絶望に駆られた彼は楽しげに外界を泳ぎ回っていた蛙を岩屋に閉じこめることによって世間への復讐を果たす。

報道に接する限り、秋葉原の殺人者は山椒魚だった。蛙を閉じこめる代わりに、彼は人をトラックで跳ね、ナイフで刺すことによって復習を敢行しようとした。寒いほど独りぼっちだった。

自分のことを振り返る。最近の言葉で言えば、典型的な“ミドルエージ・クライシス”だったと思う。数年前に軽い鬱に見舞われ、そこから脱出した今だから“軽い”と軽く言えるのだけれど、毎日が言いようもなく辛かった。ナイフで人を刺そうとは考えなかったが、言葉で人を傷つけたし、自殺者の気持ちも、控えめに表現しても自分なりに理解をしたと思えた。

他人から見れば、別に不幸な境遇にあった訳でもない。少しだけ、自分の望みどおりに生きる進み行きをコントロールできない、思いどおりにならないというだけの話である。それだけのことで、人は自分を簡単に不幸だと思いなせる。自分だけが不幸かのように錯覚する。僕が落ちた穴はごく浅いものだったと思うが、それでも辛かった。会社から帰宅と上の空を見上げて心の中で呟いたものだ。
「寒いほど独りぼっちだ」と。

あれで穴が深かったらどうなっていたのだろうと考えると、それは想像の向こう側の話でしかないのだけれどが、自分を殺したり、他人を殺したりする自分がいなかったとは決して言えないと思うのである。井伏鱒二の『山椒魚』の台詞を思い起こしていた自分から殺人者の自分までどれだけの距離があるのかは僕には分からないし、分かりたいとも思わない。ただ、ルーク・スカイウォーカーの親父がダースベイダーに変身するのには、単なる寓意、エンターテイメント以上の真実が含まれている。人間は思った以上に簡単に壊れる。

この国の現実は、ご承知の通りの経済・社会状況で、その壊れやすい人間の自尊心はあちこちで持ち上げられ、あちこちでずたずたにされている。日本的集団主義が壊れつつある中で、人の心に平安をもたらす新しい規範はまだ見つかっていない。悲しいことだが、どこで何が起こっても不思議ではない。思い出したように悲惨な乱射事件が起こるアメリカと日本は似てきていると直感が言う。それが、少し前までは社会の同質性と安全性の高さで瞠目されていたこの国の現実だと考えると卒然と立ちすくむ想いがする。

今の勤め先には秋葉原で殺された方のお父さんと近しい方がいる。悲惨この上ない。