人知を越えたもの

正直言うと、アートの手段として写真は絵画に比べて一段劣るのではないかと、なんとなくそんな風に信じてきた。それがここ数日、そうではないのではないかと反駁する声が自分の中から聞こえ始め、いまその声を率直に聞き始めている。

きっかけはEmmausさんの植田正治に対するエントリーを読んだことにある。Emmausさんは植田とジャンルー・シーフという僕には初めての写真家を並べて論じている。それについて触発された感想は、すでに先週ここに書いた。その中で僕は、絵画ならばもっと自由な構成をいくらでもできるのに、それを植田は写真でやろうとして窮屈になっているという率直な感想を述べた。この感想も、ある意味で絵画優位論を指向している。

ところが自分が撮った写真を眺めながら考えた。よく撮れている、訴えるものがあると感じられる写真は、自分が計算した枠をはみ出す部分に力を有しているのではないかということだ。僕はときどきこのブログの中で今のよいカメラならば「シャッターを押せば誰でも撮れる」という感想を書き記しているが、それは創造者たるもの、すべての要素を明確にコントロールする意思と技術が作品に反映されていなければ駄目だろういう思いを下敷きにしている。しかし、それこそが大いなる思いあがりなのではないかと頭の中で誰かが僕に告げた。写真のすごさはある意味で人知を越える表現を可能にするところにあったのではないか。それは、その写真を撮った作者その人に、新しいものの見方やパラダイムの転換を迫る何かを突きつけてくる。真摯にその写真と向かい合うことをすれば。

絵は自分が描いたものしか表現できない。写真の作者は、絵を描くのと同じ意味では画像の描出に荷担できない。しかし、自分が描こうとしたもの以外を表現できる。この余白の大きさが写真が見る者を動かす強さを持つ理由なのではないか。