我々が履いている下駄の高さは

沢尻エリカ、亀田親子と、立て続けに有名人バッシングが巻き起こっています。沢尻も亀田の親父も自分のやったことがそこまで世間を騒がすとはつゆ思わなかったんだろうな、とテレビやWebを見ていて思いますね。自分たちの世の中との接し方が平均的な他者にどう映っているのか、たぶんはじめてそれなりに想像してみることができたんじゃないでしょうか。


「よく分かっただろう馬鹿芸能人、馬鹿親子、ざまあ見ろ」と書きたい気分が僕にもまったくないわけではないんですけど、それはともかく、ここでむしろ話題にしたいのは、程度の問題こそあれ、我々だって同じように自分の履いている社会的な下駄の高さは見えていないよねという点です。我々は、社会人であればどこの誰であっても他人と向き合うときに社会的な下駄を履いているわけで、それは案外自分が思っているよりも高かったりします。ですが、本人にはその下駄、社会制度の中で担う役割、自分の役割に付随している意味や規範のありようがはっきりと自覚的に見えているとは限りません。沢尻だって、亀田だってそうなんじゃないだろうか、と僕には感じられます。沢尻について僕は『パッチギ』でヒロインを演じていた可愛らしい女優さんということしか知識がなく、どんなキャラクターなのかまるで知らないのですが、少なくとも自身が社会で求められている役割、自分が社会からこういうものとして見られているという姿がまったく見えていなかったことは間違いないでしょう。亀田の親父に至っては、誰が見てもそうですよね。


しかし奴らが馬鹿だということで終わらせては、ここで取り上げる意味はまったくないのでして、けっきょく平均的な人間は、例外なくどこかで自分が分からなくなる境界線を持っているし、自分が与えられている社会的役割には思いの外大きな力があったりする場合も少なくないのではないでしょうか。


見えていないのが尊大な自分なのとは逆のケースもあります。数年前軽い鬱を煩ったときには、『伊勢物語』の在原業平じゃないですが、「身をようなきものに思いなして」自分が履いている下駄が足かせのようにすら感じられました。しかし、実際にはあらゆる下駄にはつかいでがあるのであって、自分には「ようなきもの」に見えるものが少し見方を変えると意外に意味があるものだったり、有用で価値があるものだったりします。でも、鬱の時には下駄の価値よりもそこにまとわりつく義務や下駄の貧相な部分ばかりが目に付くのですね。自分はこういう者“である”という自己規定は、マイナスの方向にばかり続いていくのですが、そういうときに「あんたの履いている下駄は全然悪くないよ。それにあんた自身を履いている下駄で評価するつもりもないよ」と誰かに言ってもらったら楽だっただろうなと感じます。


沢尻や亀田が履いていたのは、必要以上に頑丈な鉄下駄のようなもので、連中は自分がそれを使ってのし歩いていたことを気が付かなかった。歩き方を間違えて他人を蹴飛ばしでもしようものなら簡単に怪我をさせてしまうような代物なのに。我が身を振り返っても、ひやりとすることはしばしばあります。今だって相手を傷つけていることに気が付いていない場合も少なくないはずだと想像すると、やはり怖いものがあります。