オーソドックスな自己主張

上岡敏之指揮するヴッパタール交響楽団のコンサートを聴いた。10月10日東京オペラシティのタケミツホール。曲目はR.シュトラウスドン・ファン」、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番ハ長調ベートーヴェン交響曲第5番

この日の興味はヴッパータール交響楽団でもあり、上岡敏之でもあった。当日のプログラムによればブッパータール交響楽団は創立150年に近い歴史を持っているが、ドイツのオーケストラとしては中堅どころである。ベルリンフィルを頂点に、有名歌劇場のオーケストラ、各地の放送局のオーケストラなどピラミッドの上に位置する楽団は海外公演もするが、このクラスのドイツのオケが日本まで来ることはあまりない。ケルンで聴いたことがあるギュルツェニヒ管弦楽団などもそうだが、それなりの実力があっても海外公演などほとんどない。だからこの日のコンサートは、かの国で一流どころの次のクラスに位置するオーケストラがどの程度の力量を持っているのかを確かめる希な機会というわけだ。


また、上岡敏之さんという指揮者も僕にとってはまったく初めての存在。このコンサート、知人のBさんから譲って頂いたものなのだが、上岡を贔屓にしているBさんからは「けっこう癖がある演奏をするので、合う人にはすごく合うんですけど、そうじゃないと……」と注釈付きでチケットを頂いた。また、ある事情通からは、昨年暮れにNHK交響楽団の第九に出演したときにはオーケストラにひどくいじめられたという話も漏れ聞いた。でも、ドイツではヘッセン州立歌劇場の音楽監督を1996年から2004年まで務め、その後にヴッパータール音楽監督に招かれるなど、ドイツで着実に地歩を築いている人のように見える。1960年生まれだから僕と一つ違い。どんな演奏をするのか興味が湧く。そんな二重の興味を携えてタケミツホールの3階席に座った。


ヴッパータール交響楽団は、なるほど田舎のオケではあるなという感想であり、なるほどドイツのオケであるなという感想でもある。第一バイオリンが5プルト10人という規模の小ささもあり、ダイナミックレンジは小さい。スーパーオーケストラから出てくるフォルテシモの次にもう一段、二段のフォルテが重なるようなダイナミックな音は出てこないし、衣擦れの音を聴くかのような繊細なピアニッシモもない。素朴とはこういうものを言うのだろう。


ところが、いつも一緒にやっている音楽監督の下での演奏ということもあるだろうが、音楽にまとまりがあることについては、やはりさすがドイツのオケと唸らざるを得ない。とくに弦のセクションがバイオリンからコントラバスに至るまで同じビジョンを共有して音楽を作っている点には瞠目というほかない。先日、新日フィルでブラームスを聴いた感想を「オーソドックス」と書いたが、今思えばあれは「オーソドックスな凡庸」だ。ひどかった。正直なところ頂いたチケットについて悪口を書くのははばかられるという気持ちもどこかにあり、何を言いたいのか分からない文章を書いてしまったが、こいつらお客を素人だと思ってなめているのかもしれないが、あれではお客はこないぞと僕は思った。セクション毎のつながりというか、皆が同じ規範を共有して曲を作っているという感じが薄い演奏。自分の言葉をしゃべっていないような演奏。それにくらべて昨日のヴッパータールの音楽はその反対だった。これぞ合奏の醍醐味。そう言いたくなるサムシングに溢れた演奏には聴いていて引き込まれるものがある。義務で試合をしているプロ野球よりも、技術はなくても試合として緊迫している高校野球の方が断然面白いものだ。


さて、どんな癖のある演奏をする指揮者なのかと興味津々だった上岡敏之だが、あに図らんや、その音楽はオーソドックスだと僕は思った。「ドン・ファン」も「運命」も、彼が表現したい音楽はとてもオーソドックス(上岡自身が独奏者として弾き振りをしたモーツァルトは、ダイナミックの設定に遊びがあったが、あれは彼自身のピアノを含めてご愛敬だろう)。しかし、そのあるべき曲の姿を彼なりに明らかにするために、細部に小さな工夫を織り込んでいく。それによって曲のアウトラインをくっきりと際立たせる、作曲家が全体として言いたいことを聴衆にはっきりと示すというのが彼がやりたいことだと僕には思えた。


だから局所をとらえて見れば、個性的と見える部分もあり、それが嫌いな人には嫌われるのではないか。また、引っ張ってゆく指揮者が必要なこうしたレベルのオケでは、彼のドライブ能力とはっきりとした主張は大いに歓迎されると思う。しかし、この上のオケ、一癖もふた癖もある先生方が舌なめずりをしながら待っているようなオケで、彼の局所的な工夫のようなものが受け入れられるかどうかは不明である。「うざい」と受け取られる恐れなきにしもあらずと見た。


彼の指揮ぶりや音楽の作り方を見ていて誰かに似ていると思ったのだが、それが誰なのか思いつきそうでつかない。ところが、アンコールが始まると謎は一挙に氷解した。曲目は「こうもり」序曲。このオペレッタを得意としたカルロス・クライバーの名前がたちまち浮かんできた。これは僕の想像でしかないが、上岡にとってのヒーローはクライバーだったのではないか。もし、希代の天才指揮者に自分をなぞらえて、そこを目指しているとしたら、そこにはそれゆえにチャレンジングなこともたくさんあるはずだ。そんなことを考えた。もう少し聴いてみたいと久しぶりに思う指揮者に出会った。