すみません

これは野球の話ではないけれど昨日のエントリーに連なる話題になっている。アメリカ人と日本人の視線の違いという話のバリエーションなのだが、僕はアメリカ人が「I'm sorry」と言うのを聞くたびに、日本とアメリカの距離を感じるという話。つまり日本とアメリカの距離は、僕の意識の中では「すみません」と「I'm sorry」の距離なのだ。


「すみません」や「申し訳ありません」は本質的に「I apologize」の上に成立し、用法として「たいへん(又はちょっと)失礼」方面に展開していく表現だと思うので、語義的に英語で比較すべきは他人の足を踏んだときに使う「Excuse me」ということになりそうだ。しかし、言葉を発する状況や頻度を考え合わせると、「すみません」は英語の「Excuse me」が利用される状況で使われる場合よりも、どちらかといえば「I'm sorry」と発する文脈と重なる部分で活用される方が多い。


例えば、予定の飛行機にもう間に合わないというぎりぎりのタイミングで空港に着き、走って搭乗カウンターに行き、チェックインを依頼するとする。そこが日本でもアメリカでも、係の人が親切だったり気が利いていれば、「滑り込みセーフ」となるところだが、反対にいじわるだったり、やけに規則に忠実だったりすれば、乗せてもらえないということが起こるだろう。実際、そういう経験がある。そんなときに相手が言う台詞は「申し訳ございませんが」であり、「I'm sorry to say this」だったりするだろう。


しかし、「すみません」と「I'm sorry」の距離は大きい。「ごめんなさい」、あるいは「申し訳ございません」という言葉を聞いたり読んだりすると、僕は腰を折ってへりくだるおっちゃん(=自分自身)の映像を思い浮かべる。これに対して「I'm sorry」を口にする米人を思い起こすと、姿勢を正して慈悲の眼差しを向けるあの人、この人が脳裏に浮かぶ。それは皮肉や冗談ではなくて、そうなのだ。


「I am sorry」は日本語だと何だろう。政治用語と化した例の「遺憾に思う」が相当するのではないかと思う。口語的に訳すならば「残念です」とか「悲しいよね」という感じだろうか。決して日本語の(本来の意味での)「すみません」ではないはずだ。もっとも言葉は生き物だから、現代日本語の「すみません」も決して常に「I apolojize」の意味に限定して使われるだけにとどまらない。それは、謝意を伝えるという役割を越えてあらゆる状況に出没する。自分を振り返ると、日本語で電子メールのやりとりをするようになって、その傾向に拍車がかかったのを意識しているのだが、「私はつっけんどんに依頼しているわけではありませんよ」だとか「別にあんたにあなたにきつい言い方をしているわけではないですよ」というニュアンスを伝えたくて、依頼をする際にはことあるごとに「申し訳ありませんが」と書いている。でも、毎日口にしているその表現の根っこには「I apologize」がしっかりと生きてもいるので、そうやって「申し訳ありませんが」と書いたり、言ったりしていると、自然と性格や生き方が卑屈になる感じがあるのだなあ。でも、そうしないとうまくやっていけないのが、悲しいことに得てして普通の日本の社会なのである。べつにそこで悲しんでいる必要はないのだけれど。