アンチユートピア小説

いま、近未来の日本を舞台にしてジョージ・オーウェルの『1984年』のようなアンチユートピア小説を書くとしよう。それは例えばこんな風に始まるはずだ。

日本にはもはや表札のある家は存在していない。人がすれ違う際に「こんにちは」と声を掛け合う習慣は、20世紀の時分から次第に希薄になっていたが、この小説の時代には、挨拶は素性の知れた知り合い以外に交わさせることはなくなっている。名札や名刺など個人を特定できる情報は厳重に管理され、安全性が保証されている特定のサークルの中でのみやりとりされる。人は数個のIDをシーンに応じて使いわけるのが普通だが、本名を忘れる人が少なくない事態が進行していることにさすがに政府も不安を感じ、首相の諮問機関であるID管理研究会が対策を検討している。「内と外」の区別はますます強固になり、「内」のなかには何重もの「内」が入れ子のようにつくられ、日本は日本である度合い、不思議の国の度合いを限りなく強めている。老人の中でもとりわけ高齢の人たちの中には、かつて「グローバル化」というスローガンが流行ったことを覚えている者も残ってはいるが、いったいそれが何を意味していたのかを正確に覚えているのは万に一人いるかいないかという状況になってしまった。


そんなある日、この小説の主人公である80歳の老人(彼は第一世代のブロガーだろうな、やっぱり)が、街中で一人の少女(これは大衆小説だから、美少女はお約束だ)に「実名」で呼びかけられ、思わず立ちすくむところからこの物語は始まる…。


「ケーキは量じゃなくて味だろ、やっぱり」

空想の世界に遊んでいたら、折り込み広告を一生懸命に眺めていた我が家の高校球児の脳天気かつシュールな発言で、あっという間に現実に引き戻される。