強くなくては

数日前にヤンキースで苦闘する井川のことを書いたエントリーに対し、Emmausさん(id:Emmaus)から「中山さん、日本と違うアメリカの厳しさの中で生き抜くには先ず何が必要と思われますか?中山さんのアメリカ経験で。」と思いもよらなかった難しい問をさらりと突きつけられてしまった。うーんなんだろうと考えたときに「強くなくては生きていけない。優しくなれなければ、生きていく資格がない」というチャンドラーの有名な台詞が浮かんできて、それに違いないと思い、そのままにコメントを返したのだが、ちょっとかっこつけたわりに禅問答風で分かりにくいなと書いた本人が思う。そのフォローを少ししたい。


言いたかったのは、個人がもっともっと前に出る勇気がないと、アメリカではやっていけない。これは和を以て尊しとなす日本人にとって難しいことだから、それを最初にいうべきだと思った。そういうことです。


「例えば」って話を続けると、日本だとブログでほとんどの人がハンドルネーム使うでしょう。でも、アメリカの場合、本名でブログを書いている人がものすごく多い。欧州だってアメリカに近いのじゃないかな。『フューチャリスト宣言』の中で茂木健一郎さんが「ブログが名刺になる」ということを言っていて、実に茂木さんらしいなと感心した。彼は(自分にとってのブログがそうだと述べると同時に)日本の未来はそうなるべきだという願望と意見を述べているのであって、今の日本のブログの状況を見ていれば、実態はその反対だ。実名を名乗れずに名刺になるかよってなもんである。実際、茂木さんはご自身のブログで「匿名は卑怯だ」とちゃんと書いていたし、『フューチャリスト宣言』でもそれに近い見解を述べている。


これはとりもなおさず『ウェブ人間論』で梅田望夫さん(id:umedamochio)と平野啓一郎さん(id:keiichirohirano)がやったディスカッションの題材そのものなわけだが、僕はずっと平野さんのスタンスに共感を覚えている。梅田さんはこの『横浜逍遙亭』にトラックバックをくれたりするのを見ても分かるとおり、ブロガーにとてもやさしいし、現状を理想の高見から全否定するような匿名ブログ批判はしない(『フューチャリスト宣言』でも同じ立場を繰り返し表明している)が、しかし、梅田さん・平野さんのお二人ともに「現世の実利をとろうとすれば実名の露出は必要」という点で何ら意見に齟齬はないはず。


アメリカという「俺が、俺が」の社会でしっかりと生きていこうとしたら、ブログで実名だすのを怖がるようでは駄目なんでないかいということです。いったい日本のブロガーがハンドルネームの後ろに逃げ込んで出てこないのは、こんな周囲の目が怖いからでしょう。

「ねえねえ、知ってる、昨日さあ、インターネットやってたらさあ、ハルカのブログがあってさー」
「ウッソー。どうやって見つけたのー」
「たまたまなんだけどさー、見たらさー、アッコのこと書いてんのー」
「まっじー! それって、ヤバいんじゃなーい」
「でしょう。それってさあハルカか、ナエしか書くやついないじゃん。」
「見たい、見たい。あとでアドレス教えて」

「ねえ、知ってる。高橋さんの奥さん、ブログ書いてるの」
「何それ」
「いやだ、あなたブログ知らないの。インターネットで日記を書くやつよお。それがさあ、なんと自分のこと、ナンシーって名乗ってんのよお」
「それって高橋さんのこと?」
「そおよー。私、なんかおかしくなっちゃってさあ、悪いけど一人で笑ってしまって」
「で、高橋さん何書いているの」
「それがさあ、あの人けっこう文学少女なのよ。少女っていうのは変だけどお」


なんてのが絶対に嫌で匿名の人、とっても多いのじゃないかい。現世の私とヴァーチャルの私が切れていることは重要なんだ。現世の私がそれによってつまらない傷を受けてはたまらないからね。でも怖がるような相手だろうか。それは怖いだろう、ものすごく。日本人にとっては私たちの隣にいる人たちは世間様で、世の中そのもので、それがいちばん怖い。今日の朝日新聞にも掲載されていた、裁判沙汰にまで発展した新潟の村八分のニュース。あれが「怖い日本の私」の世界ですね。周囲の評判が生存を脅かすことを日本人のDNAは知っているんだ。でも、その面の皮の薄さでは、とてもアメリカでは生きてはいけないと思われ。


アメリカで生きていくためには」というお題からブログの話に行ってしまったが、実名ブログが増えるのは日本の社会の風通しをよくすることに幾ばくかなりともよい影響を及ぼすと僕は単純に考えている。差し支えなさそうな方、実名ブログに変えてみませんか?