アメリカの宇宙人

長男の机の上にアーモンド型の真っ黒な目をした、緑色の可愛い宇宙人が乗っかっている。アメリカの小学校でいちばん仲がよかったお友達ハリーからかつてもらったプレゼントだ。小学生同士のプレゼントでキモかわいい宇宙人というのがアメリカ人らしい。


僕自身、日本テレビの矢尾板某氏が作る宇宙人番組を喜んで見た口で、宇宙人を面白がる気持ちにおいては人後に落ちないつもりだが、その存在を信じているかと真面目に訊かれれば「信じてません」と答えるのにやぶさかではない。どうしたって幽霊と同類だと思わざるを得ないからだ。だからこそ、「宇宙人はいる!」「円盤を見た!」という話は面白いとも思う。


アメリカ人は宇宙人が好きだ。数年住んでみて「へえー、アメリカ人って宇宙人好きなんだー」と思った。メディアのポップカルチャー的な図柄、テレビのお笑い番組の一場面、タブロイド的媒体に宇宙人の絵がしばしば登場する。冒頭のように子どものおもちゃにもなる。日本で宇宙人という言葉を聞くときに私などは好きといいながらキワモノ感と表裏一体である点はどこかで意識をしているし、社会の平均値もそうだと思う。ところがアメリカではしばしば宇宙人がB級コンテンツの刺身のつまで登場するのに出会った。それほどアメリカ人にとっては気になる存在のようである。とくに僕がたまたまアメリカに住んだのは、例の、ニューメキシコ州で円盤が墜落して密かに米国政府が宇宙人を回収したと噂されるロズウェル事件発生50周年という時期に重なっていた。アメリカのメディアはけっこうな騒ぎだった。


目撃証言によるとアメリカにおけるUFOの飛来頻度は他国の比ではないようだが、これは昨日のエントリーで話題にした、アメリカの広大な国土に対する人の心の自然な反応のような気がする。とくにルーラルエリアと呼ばれる地域の人気のなさに、人の心は平静ではいられないのではないか。『未知との遭遇』で平原の一軒家に住む家族の下に黒雲とともにUFOがやってきて女の子をさらっていく場面があるが、ああいうのは山国日本で「天狗にさらわれる」と言い習わしていた心象をそっくりとなぞっていると思わざるを得ない。アメリカの広さは、か弱い動物としての人間の心、銃を常備しなければ恐くて暮らせない人の心に宇宙人を住まわせる必然性があるような気がする。


さらに、もう少し社会的・文化的な側面に踏み込むと、これも数日前に書いた「We are the World」的な自信の裏返しとしても宇宙人はアメリカ人の心に入り込む余地があるのではないかと思う。「俺たち世界で一番、恐いものなし〜」のメンタリティを持つ平均的アメリカ人ではあるが、冷戦も終わり、恐いものがない。人間には恐れの感情を持つことによって心のバランスを取る必要性があるのではないか。それによって生じる共同幻想は社会を維持する上で有用性を持つのではないか。だとすれば、世界に恐いものがないかぎり、それを異境に求めるのは論理的だ。アメリカ人の宇宙人好きから帰納的にそんなことを考えてしまうのである。


ところで、以上のようなことを考えていたのは21世紀が始まる直前の時期で、まだ9.11以後の世界は到来していなかった。いまやアメリカも宇宙人どころではないのではないかという気もする。僕自身はかれこれ7年もアメリカに行っていないので、彼の地がどんな風に変わっているのかまるで分からないのだが。