アメリカの大地に広がる空間について

アメリカは広い。と思った。アメリカの印象をひと言で言うとそうなる。途轍もない広さをもってその国土は広がる。飛行機に乗って国内を移動しても、車に数時間乗ってレジャーに出かけても、その一点においてアメリカの印象はまったくぶれない。ある時、仕事でデンバーに行った。空港から市街までバスを利用したら、ドイツ語をしゃべる若いバックパッカー二人組が隣に座った。初めての米国旅行だという。「どう、アメリカの印象?」と訊いたら間髪を入れずに一人が「gross!(広い!)」と返してきた。生まれて初めてドイツに旅行した初日に「なんて広い土地だろう」と思ったことが脳裏に浮かんできて、おかしくなった。


しかし、もっともその広さを感じるのは、実は住宅街においてであったかもしれない。僕が借りていた家はその辺りでは庶民が普通に住まう一軒家が建ち並ぶエリアである。その周辺に広がる豪邸街を見慣れた目にはかなりざっくばらんで、ちまちまとした通りに映るのだが、そんな場所ですら歩くと日本の広さとは明らかに縮尺が違っているのを実感する。僕は歩くのが好きなので、今でも横浜や東京の街をよく歩く。足が距離感を覚えているのだが、その足が知らせてくるデータと目が理解する大きさのデータが、日本のそれと微妙にずれているのを滞米当初は自然と意識させられたものだ。なんかちがう。ガリバーのようにあからさまに縮尺がずれている世界に投げ出されれば、この“微妙に”と言いたくなる間合いは発生しないだろうが、同じ人間の世界には、そこまで戯画的な落差は存在してない。だからこそ、理解するのは難しかったりする。