梅田望夫さんの「サバイバル」をめぐる雑感

梅田望夫さんが「サバイバル」をめぐってネット上の匿名の衆生とやりとりをしているのを読んだ。

■サバイバルという言葉が嫌いなら使わないで話そうか

少し以前に札幌大学の三上先生が「梅田さんは日本の若者たちの「父親」の役回りを覚悟して引き受けているのだと思う」とお書きになっていた (梅田さんのサバイバル宣言について(『三上のブログ』2007年1月24日))が、今回のやりとりを読むとまさにそんな感じで、これは生半可ではない。たった三人の親の役回りを引き受けているだけでも精一杯というのが正直な感想である自分からすると、そりゃ大変な役回りだよなと思う。子どもに向かって小言を言ってご覧なさい。「まじ、うぜえ」と嫌われ、俺を横に置いて母親に俺の悪口を言って敵を取り、さらには兄弟で続きをやられる。こちとらも「まじ、うぜえ」と言いたいところだが、「それを言っちゃあおしまいよ」なのである程度は我慢するしかない(と書きながら、ホントは平気で親子げんかをしている)。梅田さんは覚悟の人だから、やり始めたからには引かずに発言を続けられるだろう。でも、親がうざいと感じる以上に子どもには伝えたいことは伝わっているものでもあるようだし、実際に梅田さんの発言には賛同・共感の声の方が大きいはずだから、ぜひ頑張って発言を続けてくださいと言いたくなる。このエントリーも天井桟敷からの心ばかりのブラヴォー、あるいはエールのつもりだ。

ところで、重箱の隅をほじくるように文句や罵詈雑言の対象になっている「サバイバル」だが、梅田さんの言葉は、僕のような本来梅田さんのスコープを外れた中年男にむしろ刺さる表現になっていると感じている。まさに「ぐさっ」という感じ。その時にサバイバルという言葉がどんな風に聞こえてくるかだが、要は自分自身に向かって「おまえ、いまハッピー?」と訊いてみたときに「ハッピー、ハッピー、猛烈ハッピー」と答えられれば、それが百点満点にサバイブできている状態だと、そんな風に解釈している次第。ただ、そこまで脳天気にハッピーと答えられる状況なんて誰にとってもなかなかないわけで、なんとか「ハッピーなんてとんでもない」という状況を乗り越えて、「まぁ、理想とは言い難いが、それなりに」と言えるようであれば、自分としてはサバイブできていると実感していると言ってよいと思う。下手をすると、思い通りに事を運べないもう一人の自分を自分自身がなきものにしたくなる最悪の事態さえ誰の心にも平穏と紙一重に存在しているはずで、サバイバルという言葉は今の日本を生きる自分にとっては単なる比喩とは思えない。ここには自分自身をなんとか精一杯持ち上げ続けようとする心の動きが大きくかかわっている。

中年の時期が深くなってくるにつれて、家族の問題や雇用の問題、自分自身の健康の問題、人間関係の問題、お金の問題と、黙っていても皆それなりに苦渋を抱え出す。それらが心のありように大きな重しとなっていく。開高健は鬱に陥ったときの自分を「立ったまま腐っていくように感じられる」と書き、その屈託は吉本隆明が異常趣味だと罵ったベトナム取材の原動力となった。あるいは「オーパ」「オーパオーパ」に結実する釣行の契機となった。それが開高のサバイバルの仕方だった。自分のことを振り返ると、こうしてこのブログを書き付けたり、『写真帳』に一生懸命素人写真を発表しているのも、「オーパ」には比べものにならないが、自分にとってはそれなりにサバイバルへの意思表明ということになる。最終的に、どこまでサバイブする気概を携えて生きることができるか、死ぬまで自分自身と語り合いながら生きていくことになるのだろう。