やめられない、とまらない

連休中からブログの投稿回数を減らそうとしているのだけれど、なかなか思い通りに自分を抑制できない。山に行った話も書いちゃうし、東京駅までの40キロウォーキングの話も書いちゃうし、なんでもネタにブログを書かずにいられないのは、やはり少し中毒気味だと思う。ついにはカメラのことまで書いてしまった。100エントリー目のときに書いたことだが、この中毒になるというのがブログの大きな特徴のようで、ある時から常に心に小さな葛藤を抱きながらのエントリーと相成っている。というのは、「こんなエッセイの枕のようなものばかり書いていても埒あかない。自分のためにならない」という意識が一方で芽生えているからで、思い切ってしばらく書かないのも手だと連休前に考えたが、うまくいかない。

たばこを吸わなくなってから15年以上経ってしまったので今や喫煙は大昔の思い出話だが、その当時はとても一箱では足りず、禁煙を思い立った頃には「このままだと二箱間近だ」と慌てていたことを覚えている。自制できないたちなのだ。のどは痛くなるし、健康を明らかに阻害していると焦ったのも事実だが、それでも二箱にいかなかったのはお小遣いの制約という理由が大きかった。当時、たばこ一箱は220円だっただろうか。ちゃんと覚えていないが、平日も土日の区別なく、少ない手持ちの現金が確実になくなる現実がかろうじて僕の健康を守っていたわけだ。学生時代に盛んに行っていた山登りは電車賃がけっこうになるので、これもそれが理由で回数に限度ができた。

それに比べてブログは経済的な制約がまるでない。これは何か社会的な制約がないと諦めがつかない僕のような意志薄弱男には中毒を促す大きな要素である。まことチープ革命は思わぬ形で僕の日常をデザインしていることになる。そこであらためて思うのは、自分が自分の意思で決めていると思っていることも、実はその前段でけっこう環境がもたらす社会的な制約によって大きな影響を受けているのだという事実の存在である。

金がかからないので書くことを止められないとすれば、後は抑止力として残っているものは何か。いちばん気になるのは時間に対する稀少意識だ。こればかりは増やすことも取っておくこともできないから、ブログを書くことで犠牲になる何かの機会が存在していることになる。少ない自由時間をブログ書きに費やすことで、明らかにインプットの時間が足りなくなっているのは実態だし、一つの課題をじっくり寝かして考えることを放棄している観がある。書かない時間を確保することによって、ブログの質も高められればいうことないではないか。てなことを自分に言い聞かせようとしているのだが、うまくいくかどうか。開高健が流行作家の書きすぎを軽蔑しつつ、自分の心の中を覗きながら「忘れられるのが恐い」という言葉を残していたが、末端ブロガーにも滑稽なことに同じ心象は宿るのだ。

というわけでしばらく書かない日が続いたら、「おっ、奴はうまく自分自身というしがらみから逃れらているようだな」と喜んでやってください。