第一球目は直球

松坂大輔がこの春、アメリカでの最初の登板となったボストン大学との練習試合で最初のバッターに、この日最初で最後のヒットを打たれた。明らかに直球待ちの一打は、振り遅れたのが幸いしてレフト線の二塁打になった。話題の松坂からヒットを打った大学生ということで、米国の新聞もさかんに記事にしていたが、そのなかである記事では「記者会見で日本のメディアが発した奇妙な質問」のことに触れていた。


これは、キャンプ中の最初の合同記者会見で日本の記者が「最初のバッターにはどんな球を投げたいですか?」と質問したのに対して松坂が直球と答えていたやりとりを指したものだ。この場面は日本のテレビニュースでは何度も放送されていた。そのやりとりが記事なったのを読んでいた大学生が直球狙いで二塁打をものしたとボストンの新聞は書いており、そのなかに「奇妙な質問」というフレーズが使われていた。


公式戦初登板となったカンザスシティ戦でも松坂は第一球にストレートを選んだ。僕が観た日本のニュースでは「やはり松坂は直球を投げましたね」といった類のコメントが流れていた。


昨日の、地元ボストンでの最初の登板。イチローとの対戦が注目を浴びていた松坂は、第一球目にカーブを投げた。そのことについて日本のメディアに聞かれたイチローは「カーブで冷めた」と答えた。


というわけで、「何故直球である必要があるのか」だ。そもそも、それ以前に、打者と投手の“対決”をゲームそれ自体と同等の価値で報道したがる日本のメディアの性癖も、アメリカの報道と比べると際立つものがある。その辺りからつらつら考えると、国技相撲観戦の規範が野球にも流れ込んでいるのではないかというのが僕の推測。相撲には愚直な押し、がっぷりよつが基本であるという強固な規範が存在する。立ち会いの変化は基本的に嫌われる。相撲の場合、小手先で相撲を取っていては長期的に見ると高い勝率を残すことが難しいという経験則が裏でこうした倫理や規範の根拠になっているのだろうと僕は想像する。そうだとすれば、そこには大いに合理性がある。それが「変わるのはフェアではない」という共通認識の土台になっている。


たぶんに“直球勝負”も相撲のノリだろうと思うのだが、野球の場合、相撲のような“立ち会いの変化で勝てる比率は低い”に相当する合理性が、変化球の利用に関して存在するとは思えない。明らかに直球はマッチョのイメージだけがもてはやされているのだ。「直球=男らしさ」だ。


アメリカにそういうものがないとは決して言わないが、こと日本に関する限り、そうした固定観念があまりに強すぎないか。どのチャンネルを観ても「松坂、一球目はカーブ」を話題にしているのを知ると僕はいやーな気分になる。職場でも、学校でも、コミュニティでも、そうした「かくあるべき」の縛りがこの国を生きにくい場所にしているのではないかと常々思っているもので。いいんだよ、別に人と同じことしなくても、人のやることを一つ一つあれこれと指摘しなくても、と思ってしまう。