竹の庭でグーグルのことなどを考える


夜半の強い雨は上がっていたが、垂れ込めた雲と台風の余波を思わせる風の朝。降られるのを覚悟で鎌倉までサイクリングに出かける。案の定、雨の合間を走り抜けて古都へ。竹の庭で有名な報国寺でしばし遊んだ。庭の写真を撮りたかったのだが、竹の茂みで光が届かない庭は、露光不足で絵にならなかったのが残念。


梅田望夫さんがフォアサイトの連載で著作権に対して本年と建前を使い分け成長するYouTubeのすごさ、怖さがフジテレビが始める「ワッチミー! TV」(http://www.watchme.tv/)との対比などをしながら分かりやすく説明している。

■「『確信犯』的な態度を貫く『ユーチューブ』の加速感」(『My Life Between Silicon Valley and Japan』2006年9月16日)


YouTubeにせよグーグルにせよ、これから我々のコミュニケーションの根幹となりそうなサービスを特定の種別ごとに一の民間企業が支配しそうな勢いだが、そのことがユーザーとしての自分にどのような不都合を生じせしめる恐れがあるのかを僕自身はまだよく理解できていない。しかし、彼らの突出が歴史的に見てこれまでになかった状況を形成しつつあること、そこでは為政者が決めた枠組みさえ出し抜くビジネスマインドが求められていることだけは梅田さんのレポートを読むとよく分かる。

これだけユーザ投稿数が多ければ「侵害申し立てと削除」はどうせいたちごっこになる。よって誰もが見たいと思うような旬の映像は、「永遠にユーチューブ上には存在せずとも、かなりの確率で適切なタイミングで存在する」という著作権的にグレーな状況になるはずだ。(「「確信犯」的な態度を貫く「ユーチューブ」の加速感」)


ブロックに飛んでも後手後手に回ってしまうバレーボールの時間差攻撃みたい。


少し以前まで、電子的なコミュニケーションと言えば、それは電話に代表される電気通信のことだったわけだが、電話サービスは、多くの国で国営ないし公営事業として提供され、公益事業として規制されてきた。米国のように、地域を基盤とする民間事業者がサービスを提供してきた国でも、事業者同士の調整に加えて、政府や公的機関、標準化団体、裁判所などがサービス提供の土俵を作る役割を常に担ってきた。公益事業の世界は、産業としては企業家精神を発揮できる余地はないつまらない世界ではあったかもしれないが、国民全体に対して公平なサービス提供を如何に実現するかという視点が公の場で語られ、できるだけ多くの人々が同じ条件で普遍的なサービスを受けることができるよう心が配られてきた世界でもあった。


グーグルの情報発電所は、そんな面倒な調整の仕組みなどなしに自分たちだけの力で全世界に電力を供給し、僕の日常はその恩恵に100%依拠している。そして、そのサービスの提供は彼らの胸先三寸で如何様にもなるし、彼らが左右どちらの方向にそのサービスを引っ張っていこうとも、僕がグーグルを使い続けることは目に見えている。


こう考えるのは、僕自身に未来を見渡す視点が欠けているからかもしれず、20年後には「グーグルなんて会社がありましたね」という茶飲み話に花を咲かせているかもしれない。だがグーグル的な運動、YouTube的な運動自体は、これからどんどん強化される。そう思わざるを得ない。


こういう話になると、僕は総務省経済産業省のお役人でもないのに「日本はどうよ」という方向に意識が向いてしまう。梅田さんが『ウェブ進化論』や『シリコンバレー精神』で書いているトライ・アンド・エラーありきの新規事業開発をバックアップする資本の動きが整備されていない我が国では、ある程度資本力のある企業の動きが意味を持つケースが多くなってしまうが、「ワッチミー! TV」の例で顕著なように、日本の大企業の企みは官庁の影響力を避けて通れないようになっている(言うこと聞かないと本業でいじめられる!?)から、法的なグレーゾーンで力を発揮するのはとうてい無理。言語のハンディも考えると、我が国から世界的に通用するサービスが立ち上がるのはとても難しい。ほんとうにそれでよいのか。よくないとすれば何をしなければならないのか。


新しい情報産業の勃興によって、また僕は新しい世界の仕組みに駆り立てられたり、追いたてられたりして大変な目に遭うことは必定なのに、最後には「がんばれニッポン!」と言ってしまう自分に苦笑。