『トルーマン・カポーティ』を読むか、トルーマン・カポーティを読むか

ジョージ・プリンプトン著『トルーマン・カポーティ』(野中邦子訳)は労作である。原著が発表されたのは1997年。99年に新潮社から日本語版が出版され、この7月から本屋に文庫版が並んでいる。

トルーマン・カポーティ〈上〉 (新潮文庫)

トルーマン・カポーティ〈上〉 (新潮文庫)

トルーマン・カポーティ〈下〉 (新潮文庫)

トルーマン・カポーティ〈下〉 (新潮文庫)

カポーティの生涯を170人以上に行ったインタビューによって再構成する内容。一人の人間の一生を、彼と何らかの交流があった知人の証言によって構成する。章の冒頭に年代がいつで、その時代がカポーティにとってどのような時代だったかが一文だけ掲げられているが、そのほかはほとんどすべて発言者の名前とその発言内容が羅列されているだけ。『冷血』で“ノンフィクション・ノベル”を考案したと自画自賛をしたカポーティの向こうを張ったと考えてもいいだろうか、新しい様式への挑戦が試みられている。


それをむんずとつかんで言葉にする理解力は僕にはないが、そこには明らかにある種の批評性が表れている。また、これは研究者にとって非常に有り難い作りだと言えるだろうし、カポーティを自分自身で定義したいダイハードなファンにとっても嬉しい作りだと言えるだろう。しかし、その他のノンシャランな読者にとって、この作りは冗長に過ぎる。そして、最も重要なことは、少なくとも、カポーティを読んだことがない者にとって、この本の価値は皆無であるということだ。カポーティの伝記って何か面白いのかなーと何気なく本を手に取った読書好きはあっという間にもてあますはずだ。


ところが、これはこの伝記作家のミスかと言えば、決してそうとは言えない。僕自身はこの本を読んでよく分かったので、この長い読書は無駄ではなかったと思っているのだが、結局のところ、有名人との派手な振る舞いがマスコミのネタになっていたカポーティは、その著作ほど他人にとって面白おかしい人生を送っていたわけではないのだ。だから、この伝記作家の方法論は実に戦略的に正しいと僕は思う。下手な解釈をすれば、それをした者がピエロになる。

我々日本人読者にとって辛いのは、米国人にとって、これはある種の同時代史だろうから、自分と重ね合わせて様々な読み取りが可能なのに対し、我々異なる社会と時間を過ごしていた者には、この本にそうした機能を期待することができない点だ。最初から想定された読者ではない普通の日本人にとって、この翻訳を読むハンディは大きい。


この本の白眉は『冷血』の成立に関わった人々、その中に実名で登場する人によって、カポーティと『冷血』が、犯人たちとの交流が、『冷血』の後日談が語られる部分だ。『冷血』をめぐるカポーティへのインタビューもそのまま収録されており、この作品に魅せられた方には一読の価値があるだろう。


しかし、繰り返すが、カポーティの派手でエキサイティングな人生など、今この時代に彼の作品の読者であろうとする者にとっては何ものでもない。もし、あなたが『冷血』のファンだとして、この直前に僕が書いたフレーズを鵜呑みにして『トルーマン・カポーティ』を読もうと思うなら、その前に『ローカル・カラー/観察日記』(小田島雄志訳)所収のエッセイ『白昼の亡霊たち − 『冷血』の映画化(1967)』を読むべきだ。そこに書かれている『冷血』の後日談とカポーティの心の動きが空気を微動させるように伝わってきたのなら、あなたは『トルーマン・カポーティ』を手に取ろうと思うかも知れない。そして、場合によってはむしろもう『トルーマン・カポーティ』は読まなくていいと思うかも知れない。

小説を読んでも、ノンフクションやエッセイを読んでも、好き嫌いは別にして、そこにはカポーティがいるが、他人の目と言葉を通じて立ち現れてくるその絵姿に人を動かすものは多くはない。結局、どんなに派手に見えたって作家とはそういう存在なのだ。