あのぉ、御趣味は何を?

今日は、梅田望夫さんをお招きした講演会の企画・運営関係者10人が集まって銀座の『ライオン』で打ち上げ。鯨飲数刻。千鳥足で帰宅。

突然、昨日の話の続きである。最近アマオケを横目で眺める機会が出来て痛切に感じるのだが、オーケストラという趣味に取り組むのはそんじょそこらの熱意ではない。曲を選び、禁欲的なトレーニングを重ね、団員とのコミュニケーションを図ってアンサンブルを作りという音楽に関することだけでも大変だが、そこに団体の活動方針策定、世話役の選出、指揮者や独奏者の選出と依頼、協賛の依頼、練習と本番の会場確保、スコアの準備、大道具・小道具の運搬、集客・宣伝、その他演奏会の成立に向けて様々な労働が発生する。これをアマオケをやっている皆さんは“趣味で”やり遂げているのだ。しかしどう見ても、趣味を仕事という言葉に置き換えて何ら違和感がない重労働である。
好きだからこそ出来るのだろうが、僕みたいなナマケモノにとってはただただ信じがたい。


これを趣味と呼び、僕のように、人が演奏するCDを聴きながら寝っ転がって本を読み、そういうしているうちにいつの間にかうたた寝に移行することをも趣味と呼ぶのだとすると、この趣味なる単語は鮫もメダカも魚です、というほどに融通無碍なる存在だということになる。


そこで、昨日のブログを書いた後にちょっと遊んで趣味と呼ばれるものの広がりを理解するための視点を考えてみた。


自分自身にとっての趣味を考える際の視点として、まず個人で出来る趣味と団体で行うことが必須の趣味という対立軸を挙げる必要がある。僕の場合、基本的に団体活動が出来ない性格なので、この点は趣味を選ぶ際の判断軸として大きい。なるべくなら、趣味の時間ぐらい他人の影響力の磁場から逃れていたいと考える人間にとって、何を好きこのんで仕事以外の時間に団体活動に入れあげる必要があるのかと考えてしまう。こんな風に考える奴は、あながち嫌いではないのに団体スポーツをやる機会は遠のいてしまう。というわけで、「組織」と「個人」という対立軸。これは長く僕にとって趣味を考える上でとても重要だ。


もう一つの軸として重要だなと思うのが、その趣味を行う前提条件として、消費者(観衆・聴衆・読者)としての他者の存在が不可欠か否かという軸。たとえば、囲碁は対戦相手が必要という意味で「組織」ないし「仲間」が必要だが、観戦者を必ずしも必要としているわけではない。これに対して、趣味としての料理を考えてみていただきたいのだが、料理を趣味とする人は自分で作ったものを自分で賞味するだけで満足できる人はいないはずで、作ったものを誰かに食わせて「おいしい!」と言ってもらうことがその営為の本質に含まれていると考えるべきだ。


同じことが、発表会で演奏することを目的に頑張るピアノのお稽古にも言えるし、コメントやトラックバックをもらったりすることで張り合いを覚えるブログにだって言える。誰も見ないことを前提にブログを1年以上続けられる人はいないはずだ。


この二つの分類軸を使うと4つの類型を作ることが出来る。人呼んで「逍遙亭風趣味の4類型」。タイプAは個人で他者を不要とする求道者タイプ。ある意味、もっともオーソドックスな個人の趣味はここに分類される。タイプBは、他者は必要としないが、仲間は必要とするタイプ。従来の趣味は、おおむねこの二つのいずれかに分類できる。タイプCは、個人で出来るが、そのアウトプットを消費してくれる他者が必要なタイプ。タイプDは、組織で行い、タイプC同様、その趣味を受け止めてくれる他者が必要なタイプ。

こうやって見ると、タイプDの複雑さ、面倒くささは際立つ。面倒くさいだけに、それを実現させたときの喜びは間違いなく大きいだろう。しかし、おそらくネットの普及はオンライン対戦ゲームのような仲間を拡大させるばかりでなく、まさにブログのようにかつては容易ではなかった消費者、観衆、聴衆の集客をおそろしく容易にしている。ということは、C、Dの領域に新たな可能性がまだまだ眠っているかもしれない。

今日は酔いが残っており、落ちのない話で恐縮です。