威張らない

一昨日、梅田望夫さんと西垣通さんの朝日新聞インタビュー記事に関する感想をアップした際に、権力を持っている者が威張らない社会が理想の社会だと思うと書いた。もちろん、衣食住足りてということではあるけれども。何れにせよ、日本の社会は権力を持つと、なぜかすぐに威張りたがるやつがいっぱいいて、それがこの国の空気をどんよりとよどませて息苦しくしている。これは小さな会社も、大きな会社も、地域の町内会でも、また学校だって、昔ながらの組織では例外なくそうではないかと思われる。


この人とはあっさりとつきあいがなくなってしまったが、90年代前半に何度か会ったあるスイス人の若い大学関係者は、大の日本好きで、何度もやってきては、日本における情報技術の普及みたいなテーマで情報収集をしていた。僕が会ったのは、この人が初めて数ヶ月の滞在を敢行していた時で、東京のアパートのひどさに驚いたり、まだ携帯電話がない時代だったので電話でひどく苦労していたりしていた。ある時、その彼に「日本の一番嫌いなところって何?」て訊いたら、ちょっと思案顔になった末に「権力を持っていればいるほど過大なアドバンテージがあるように思えること」と答えを返してきた。外国人からそんな回答をもらうとは思わなかったので、その感受性と観察眼にとても強い印象を受けた。


ただ、自分の周りを見回したり、昔のことを思い起こすと、本当に偉い人はちゃんとバランス感覚を備えている場合が多く、むしろ、ほんとに偉くないやつ(つまり、役職上公的な高い権限と権力を持っていない方という意味です)が不条理に威張りたがる傾向があるように思う。この国で若いということは、若いというだけでおおむねそんな気苦労に立ち向かわなければならないということを意味するから、ともかく大変である。もっとも若かろうがそうでなかろうが、相手が食物連鎖の下位にいると知ったとたんに意地悪をしたがるような輩はどこにでもいるから、そういうことに鋭敏な神経を持っている人にとって、この国で暮らすのは楽じゃない。組織を嫌ってうまく独立しても、下請けいじめをして喜ぶおっさんには頭を下げなければならないのだ。


若い時分にジャズ喫茶のオーナーだった村上春樹さんが、何かの文章の枕で「今の時代はフリーターという身分を獲得できるからいいけど」みたいなことを書いているのを最近読んだ。僕自身は大学を出たときに就職をしないで、何のあてもないままドイツのゲーテ・インスティチュートに語学を半年間勉強しにいくという、いまから考えるとやっぱり暴挙だなと思える行動に出た体験がある。フリーターという言葉が出来るはるか以前のフリーター経験者だ。そのときのきつさを思い起こすと、定職についていないことに奇異の目を向けられなくなった時代になったはいえ、本人が自分自身を見る意識の苦しさはたぶん変わらないだろうなと思う。


「威張らない」というテーマで、20年以上経っていてもいまだに鮮やかい思い出すのは、偶然ほんの一瞬だけ会った石原慎太郎さんのことだ。石原さんにはある有名週刊誌のデータマンとしてアルバイトをしていた学生時代に写真を届けるお使いをした。そのときに彼が一介の若造に対して接した接し方のリベラルさの感覚は、僕の文章力ではとても説明しきれないのだが、原色の鮮やかさで心に残っている。この人が大臣として、あるいは東京都知事として、仮にどんなに横暴で専制君主だったとしても(本当のところは知りません)、あるいはとんでもない発言をしてよけいな議論を巻き起こす鷹派のお騒がせ政治家だったとしても(それは間違いありません)、この人の本性が人を差別する心根とは無縁の小説家であることについてだけは、僕は何の疑いも抱いていない。


小説家としての石原さんにとって僕はよい読者とは言えず、あまり面白いと思ったことはないが、「我が人生の時の時」だけは別だ。とくに、彼がこのエッセイの中で語る怪談じみた不思議な体験の数々は梅雨明けの時期に最高。文句なく面白いし、石原さんという人間の本質をよく表していると思う。

わが人生の時の時

わが人生の時の時